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 彼の愛撫が止まり、回された手にぐっと力がこもった。わたしを見た目は無表情で、冷たかった。

「なるほど……、あんた、やけに燃えてる、と思ったら、そういうつもりだった訳か。それじゃ、これは『一夜限りの』鬱憤晴らしか? 女の欲求不満解消術って奴?」
 言葉に軽蔑しきった苦々しさがこもる。わたしはかっとして言い返した。
「何よ、そんな言い方しないでよ。あんただってそうじゃない! さっき、これは浮気だって、はっきり言ったでしょ! わたしは、ずっと一人で好き勝手にやってきた翔君とは違うの! 今まで無断外泊なんてしたことないのよ。急にそんなことしたらどう思われるか考えて見て。あ、携帯鳴ってる! どこ……?」
 床の上からかすかな着信音が聞こえてくる。脱ぎ散らした服のポケットから落ちたらしい。慌ててあたりを見回した。
「さっきから断続的に鳴ってるぜ。あんたのお袋さんか?」

 呆れ返ったようにベッドから降りた翔平は、はっと目をそらしたわたしの横で、ベッド脇に脱ぎ捨てられていたジーンズをゆうゆうと身につけた。それから携帯を拾い上げ、ほらっと投げて寄越す。
 やっぱり自宅からだ。着信履歴を見てわたしは頭を抱えてしまった。母がしつこく十数回も電話してきているのが一目でわかったからだ。
 本当に何と言おうか? いい考えも思い浮かばないまま、折り返し電話すると、ワンコールで怒りを抑えた母の声が聞こえてきた。

『沙夜、あなた今何時だかわかってるの? いったいどこで何をしているの? 杉浦さんは?』
「ご、ごめんなさい、お母さん……、心配かけたでしょ。す、杉浦さんとは……、あんまりお話が合わなくて、もうとっくに別れたの……。今、ちょっと、翔平と一緒なんだけど……」
『翔平だって? こんな時間に? 何でまた?』
 母の声が一オクターブ上がった。わたしは懸命にさりげなさを装おうとするが、かえって声が上ずってしまう。
「何でって……、ほ、ほら、翔平、すぐにアメリカに帰るって言ってたでしょ? だ、だからその……、時間もあったし、ちょっと話でも……とか思ったんだけど、思ったよりその……、遅くなっちゃって……」
 焦ってしどろもどろになるわたしを、じっと見ていた翔平が、ふいに「代わって」と手を出してきた。
「えっ?」とためらうわたしから半ば強引に携帯を取り上げると、落ち着いた調子で言葉を引き取る。

「こんばんは、お母さん。翔平です……。沙夜は今、確かにホテルの僕の部屋ですよ。そんなに驚かないで……。いや、連絡もせずに遅くなったことは、重々お詫びします。あとでちゃんと送っていきますので……。そんな……、はっ、ふしだらなって、相変わらずだな……、あなた、いったい何世紀に生きてるんですか?」
「ちょっと、何言い出すのよ!」
 母と話す翔平のあまりに他人行儀な冷たさと、会話の思わぬ成り行きがわかり、ダブルで衝撃を受けた。
 余計まずいじゃない!
 慌てて携帯を取り戻そうと手を伸ばすが、あえなくかわされてしまう。
 母がまた長々と何か言っているらしい。黙って聞いていた翔平が、不意にわたしに刺すような目を向けた。
「……それについては、ずっと以前あなたに言った通りですよ。俺達は二人とも、もう子供じゃないんだ。最終的には沙夜の気持次第です。それ以外は誰が何と言おうと、俺は絶対聞きませんから。それじゃ失礼します」
 訳もわからず見上げるわたしの視線を捉えたまま、電話の向こうの母に強くこう言うなり、翔平は一方的に通話を切ってしまった。

 今、何て言ったの? それ、どういう意味……?

 きっぱりと宣言するように言い放ち、通話を終えた翔平を、わたしは黙って見つめた。
 状況が読み取れず、すっかり混乱している。すぐに再び鳴り始めた携帯を煩そうに切って、彼はわたしの傍に腰を下ろし、顔を覗き込んできた。

「お袋さん、あんたのことに関しちゃ、相変わらずすげぇな。しっかしいくら可愛い娘でも、あの感覚、ちょっと古過ぎないか?」
 わたしの手に電話を戻しながら、嫌味っぽくこう付け加える。
「で、あんた、いつまでこうやって管理されてりゃ気が済むわけ? 嫁に行くまでか? それとも一生?」
 ……『管理』?
「そんな言い方しなくても……。お母さん、ただ、心配してるだけよ。今日は期待の初デートの日だったのに、わたしがなかなか家に帰らなかったせいね……。考えてもみてよ。外泊とかしたこともない娘が、急に夜中の一時過ぎても帰らなきゃ、普通に心配するでしょ?」
「ふーん、なるほどねぇ……」
 翔平の目が意地悪く光ったような気がした。
「それじゃ、どうしてそのデートのすぐ後で、俺の所に来たわけ? そのオジサン、そっちは全然イケなかった?」
「あんたと一緒にしないで!」
 かっとして、わたしは翔平の頬を思い切りひっぱたいた。そしてちょっと呆然とする。今、何をしたんだろう……。
 怒ったように目を細めた翔平が、わたしの手首をぐっと掴んだ。頬が少し赤くなっている気がする。びくっとしたわたしを、そのまましばらく睨みつけていたが、いきなり手を離すと立ち上がった。
「それじゃ、俺にも今の状況がわかるように、きちんと説明してもらいましょうか、沙夜サン?」

 今の状況がわかるように?
 そんなの、こっちが説明して欲しいくらいだけど……。

 困惑しているうちに、壁のライトがついた。ジーンズだけ身に着けた彼の姿が光を背に浮かび上がる。セクシーに乱れた髪と、滑らかで筋肉質な上半身にいやでも目が吸い寄せられ、どきまぎした。振り向いた翔平に、わたしは焦って言い返す。
「で、でも、もう帰らなくちゃ……、ほんとに」
「悪いけど、まだ帰せない。聞きたいことも話したいことも山ほどあるんだ……。なぁ、いつまでもそんなふうに縮こまってないでこっちに来いよ。とりあえず、これでも着てれば?」
 じれったそうに足元から投げてくれたのは、さっきまで彼が着ていたシャツだった。まだ翔平の香りが少し残っている。素肌に翔平のシャツ一枚だけをまとうのも、なんだか危ない感じだ。
「シャワーを浴びて、自分の服に着替えるから……」
 俯きがちに言いかけたわたしを、彼はまたあっさりと遮った。
「後にしろよ。何ならそのままでも、俺は全然かまわないけど?」
 どちらにせよ、これでは動くに動けない。生意気な弟をきっと睨みつけ、仕方なくそれをはおった。ボタンを下まできっちり留めてベッドから出る。
 ミニバーで翔平がグラスに何か飲み物を注いでいる間に、脇に落ちていた小さな三角の下着だけ、さっと拾って身につけた。

 おそるおそる、ベッドとは反対側に置かれたソファーに座った。素足に滑らかなビロードの感触が心地いい。窓から東京の夜景がとても綺麗に見える。
 落ち着いたブラウンカラーでコーディネイトされたゴージャスな部屋の内装。うちにはまだないワイドスクリーンの液晶テレビ。壁際のデスクにはノートパソコンと書類の束が、無造作に置かれている。
 つい、ため息をついてしまう。これじゃ、あの古い家に泊まる気なんか起きないはずね。
 翔君、本当に自由なんだな。うらやましいくらい……。



patipati

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16/05/23  更新