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 陰りを帯びた真剣な眼で見つめられ、わたしは慌てて頭を横に振ると、無理に明るい声を出した。

「あんなこと、翔平もとっくに忘れたと思ってたのに……。今更、気にしなくてもいいのよ。いわゆる『ちょっと難しい時期の青少年』の『行き場の無いエネルギーの爆発』とかだったんでしょ? もう大昔の話じゃない。とっくに時効よ」
 聞くなり、彼はくっと小さく笑った。
「へぇ、なるほど……。『姉さん』は逆上した『弟』からいきなりヤられたことを、そんな心理学もどきであっさり片付けてくれたって訳だ。ったく、ありがたくって涙が出るな」

 痛烈な言葉に驚きを隠せず、固まったわたしにまた一歩近寄ると、翔平は片手でわたしの頬に何気なく触れてきた。そのまま長い指が首筋までゆっくりと辿っていく。
 どういうリアクションをすればいいかわからず、居心地の悪い沈黙が流れた。

 ふいに、彼があるホテル名を告げた。誰でも名前くらいは知っている都内でも有名な高級ホテルだ。

「……俺、今日から一週間、そこにいるから」
「さすが、アメリカの証券マンは違うわね。わたしなんか、そこらのビジネスホテルが精一杯なのに……」
 首をすくめ、気安い会話に変えようとした努力も、次の一言であっさり粉砕された。

「9021号室だ。もし気が向いたら来てくれ」

 え……?
 わたしは反射的に翔平を見上げた。それはどういう意味?

「何かご馳走でもしてくれるの? なら行っちゃうわよ、喜んで……」

 強いて笑顔で受け流そうとしたわたしの腰に、突然強い腕が巻きついてきた。あっと思った瞬間、ぐいと引き寄せられて、胸と胸、腰と腰とが密着していた。

「本当に変わってないな、沙夜は……。あの頃も今も、隙があり過ぎだよ」

 皮肉な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと翔平の顔が迫ってくる。強引に、けれど優しく唇が重なったとき、わたしは目を閉じてしまった。
 まるで問いかけるようなキス。逆らうべき理由を頭の中に山のように動員しても、その甘い魔力に逆らうのは難しかった。執拗に探られるうち、とうとうわたしはうっすらと唇を開いた。我が物顔に滑り込んできた彼の舌を、思いとは裏腹に、まるで飢えていたように受け入れる。

 喉の奥で、翔平が小さく声を漏らしたような気がした。それとも、声を立てたのはわたしだったのだろうか。弟の舌とわたしの舌が互いを探るように幾度も触れ合い、とうとう熱く絡まって停止する。
 わたしの腰に巻きついた腕に痛いほど力がこもった。キスが濃密になるにつれ、痺れるような何かが身体の奥から突き上げてきて、その危険な感覚にわたしは震え出した。身を引こうとしても、翔平はまだ離してくれない。
 彼の唇が濡れた跡を残しながら頬から耳たぶへとゆっくり移っていく。うなじに熱い息がかかると、足から力が抜けそうになった。わたしは思わず、両手で翔平の肩にしがみついた。

 そのとき、背後の夜道から犬の吼え声がして、文字通り飛び上がった。ぱっと目を開いたのとほとんど同時に、弟がわたしを無造作に脇に突き放す。
 散歩する犬と見知らぬ小父さんが通り過ぎるまでの数分間、わたし達は黙って俯きがちに立っていた。火照った身体が冷えてくるにつれ、居たたまれなくなってくる。

 翔平が何か言うより早く、わたしは視線を逸らせたまま非難するように言った。
「ちょっとアメリカナイズされ過ぎじゃない? からかうのもいい加減にしてよ」
 しっかりしなきゃ……。けれどわたしの意思に反し、声までが震えている。
「からかう? 俺はいたって真面目なつもりだけど?」
「何よ、訳のわからないことばっかり言って! わたしのことなんか、今の今まできれいさっぱり忘れてたくせに! どうして、今頃になって……」
 こんなキスするのよ、という言葉はさすがに口には出せず、ぐっと飲み込んだ。翔平が少し複雑な顔をする。
「まさか……。ずっと気にかかってたさ。向こうでも」
「嘘!」
「嘘じゃない。ずっと、あんたを傷つけた埋め合わせがしたいと思ってた」
「あのことはもう言わないで! とっくに忘れたはずでしょ? お互いに何もなかったことにしようって、あの時、二人で約束したじゃない!」

 必死で言い返すわたしを見つめていた翔平が、ふいに無表情になった。そのまま、ちょっと横向きに身体を逸らすと、ポケットからタバコを取り出し、落ち着いた動作で火をつける。
 しばらく黙って煙を吐いていたが、やがてもう一度、わたしを振り返ると淡々と問いかけた。

「それで……、本当に忘れられたのか? あんたは……」
「もう行って! バスがなくなっちゃうわよ」

 心がぐらりと傾きそうになり、わたしは急いで大通りを指差すと、声を大にした。もう限界だ。
 何を強要するでもない、ただ誘うように見つめてくる視線を振り切りたかった。
 翔平は目を細めたが、それ以上何も言わなかった。
「わかった。それじゃ……。携帯、サンクス」
 軽く手を上げて、ゆっくりと歩き出す。


 立ち去っていく後ろ姿を眺めていたわたしは、くるっときびすを返すと小走りに家に帰った。
「遅かったのね、無事に渡せたの?」
 母の声にも応えず、そのまま自室に駆け込んで、ベッドに突っ伏してしまう。

 本当に、何考えてるのよ? 全然わからないじゃない。イキナリあんなこと……。
 唇に焼けつくようなキスの痕跡がいつまでも残っているような気がした。その夜、わたしは八年前以上の混乱を抱え、ベッドの中で転々と寝返りを打つ羽目になった。
 眠れないまま、考えてしまうのは、昔の翔平のことばかりだ……。



patipati

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16/05/4  更新
再掲あとがき(?)など、ダイアリーにて。。。