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PAGE 9


 アシュラフについて歩きながら、何故か背筋を嫌な汗が伝うようだった。ひどく怖かった。全身の神経が行くなと叫んでいる気がする。

 建物の中を通り過ぎ、二人はくだんのライオンの噴水のある場所に出た。
 まだ他の観光客達が来る前らしく、人気はない。晩夏の日差しの中で、噴水は歴史を超えた静けさを湛えて沈黙していた。

「ここは、一般には『ライオンの中庭』と呼ばれている。知っているか?」
 その場所を見るなり、はっと足を止めたジェイドの顔がたちまち青ざめた。彼女が再び震えだしたことに気付き、アシュラフが眉をひそめ、両手でその肩を背後から包み込む。だが、その手を払いのけると、その場から逃げ出そうとした。たちまち捕まえられても、懸命にもがき続ける。
「いや、ここはいやよ!」
「ジェイド? しっかりするんだ。どうしたんだ? また何か見えたのか?」
 激し過ぎる反応に驚きながら、彼は一層きつくその身体を抱きかかえた。だがジェイドは心配そうに声をかけ続けるアシュラフを振り切ろうとして、なおももがき、逃れようとする。
「いや……、やめて。触らないで! わたしから手を離して!」
「ジェイド!」
見ているうちにどんどん顔色が蒼白になり、彼女の身体から力が抜けていく。ゆらいでくずおれそうになった身体を抱き留めたアシュラフの腕の中で、ジェイドは今度こそ意識を失っていた。


◇◆◇  ◇◆◇


『お前がこの災いを招いたのか?』
『……そう。皆が貴方にそう吹き込んだのね? わたしはただ貴方を愛しただけ。災いを招くことなど何もしていないわ。でも、あの人達は、わたしが異教徒だから、あなたを愛することさえ許さないと言うのでしょう?』
 あきらめの混じったため息をついて応える。彼の目はもはや何を言っても無駄だと語っていた。応えた彼の声もひび割れ、かすれている。
『わたしもお前を愛した……。だがその代償は思いがけず高くついてしまったようだ』
 そう。わたし達が愛し合うことは、今生では許されないことだった……。
 宮殿の丘の下からまた敵の大喚声が聞こえてきた。破壊され略奪された街から立ち上ってくる炎と黒煙が、この丘の上まで届きそうだ。
『まもなく全てが終わるだろう。わたしも後からすぐに行く。お前をあの者達に渡すことはできない』
 彼が赤黒い血糊の付いた剣を抜いた。戦いに汚れやつれ果てた顔には、終りを全うしようとする王者の壮絶な覚悟が浮かんでいる。わたしは彼を見つめ、静かに頷くと微笑み返した。
『それでいいわ……』
 彼が三日月刀を頭上に振り上げた。わたしは十字を切って、短く主に祈りを捧げる。
 この人に出会わせてくれたことを、感謝します、と。
 次の瞬間、焼けるような痛みが全身を襲い、わたしは壊れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
 血で染まった身体を抱きとめてくれたのは彼の両の腕。
 途切れていく意識の中で、彼の悲痛な叫びが聞こえたような気がした。わたしを抱きしめる腕も胸も、いいえ、全身が激しく震えている。頬に寄せられた彼の頬が濡れているようだ……。
『……いつか、また会えるわ。その時は、こんな時代でないことを……』


◇◆◇  ◇◆◇


「先に車に戻っていてくれ。彼女が気付いたらすぐに戻る」
「しかし、旦那様……」
「奴らもこんな人中で、白昼堂々襲ってきたりはしないさ。行け」
「は、はい。では何かありましたらご連絡を」

 低い話し声が耳に入り、ジェイドの意識は中世から現在に呼び戻された。おそるおそる目を開くと、大きな木の陰に横たえられていることに気付く。

 アルハンブラ宮殿が見える……。

 梢から覗くアンダルシアの空は、あの日と同じ深い深い青だった。こんな空をかつてのわたしも見上げていたのだろう。身体の下に固くて滑らかな感触があった。石造りのベンチに仰向けに横たえられているせいだ。幾度か瞬きすると意識がはっきりしてきた。小さな声で彼を呼ぶと、はっとしたように振り向いた。
「気が付いたのか? 急に動くんじゃない。これを飲むんだ」
 安堵の吐息とともに、上半身を少し持ち上げられて、口元に水のペットボトルがあてがわれた。少しむせながら飲み込むと、意識も随分はっきりしてくる。
「わたし……、倒れたの?」
「ああ、突然真っ青になってね。今度はどうした?」
「………」
 二人は人気のない城壁のそばのベンチにいた。アシュラフがジェイドを抱きかかえて顔を覗き込んでいる。くたくたに消耗した気分で、起き上がる力もろくに出なかった。それにしても頭が割れるように痛む。
「気分が悪いのか?」
 彼は心配そうに眉をひそめて、ジェイドの熱と脈をはかっていたが、やがてその身体を抱き起こすと、顔を覗き込んだ。
「頭が痛いわ、アスピリンを……」
 ジェイドのバッグにあった錠剤を見つけ出して飲ませてくれたので、やっと落ち着いてくる。

「もう少しじっとしている方がいいだろう。目立つ異常はなさそうだが……」
「ええ、大丈夫。すぐに良くなるわ。こんなことばかりでごめんなさい」
「いや、無理をさせたのはこっちだ。君が謝る必要はない」
 そして、優しく彼女の金髪を撫でながら問いかけた。
「どうしてあんな風に突然倒れたりした? また『日差しが強すぎた』なんて言わないでくれよ」
 心配そうな愛しい顔が目の前にあった。ジェイドは黙ったまま片手でその頬にしみじみと触れてみた。少しざらつく懐かしい手ざわり……。はっとしたように目を細めた彼に弱々しく微笑み返すと、そっと唇に口付ける。
「だって仕方ないでしょう? とても嫌なことまでリアルに見てしまったんですもの」
「ジェイド……?」
「あなたは……、かつてここでわたしを殺した。そうなんでしょう?」
 彼女の手をぐっと握り締めたまま、アシュラフは顔を強張らせて押し黙ってしまった。陰鬱なその目をひるまず見詰め返す。しばらく沈黙していた口から、ようやく重い声が漏れた。
「……ああ。そうだったな」
 ジェイドは思い詰めた目を彼に当てた。今こそ謎解きの時間だ。
「それじゃ本当に、あなたもわたしと全く同じ夢を見ているのね? 教えて。あの夢はいったい何? どういう意味があるの? あなたは、もうわかっているんですか?」



「僕がこの夢を見始めたのは、まだイギリスに留学していた頃だった。最初は訳が判らず、気にするな、と自分に言い聞かせたものだ」
「わたしも同じだったわ」
 ふっと微笑みかけると、まだ彼女を抱き寄せたまま、彼は城壁から遠い虚空に視線を向けた。そして自分の内側を見極めるように、ゆっくりと話し始める。
「この夢は、どうやら僕達が遠い昔に生きた人生、つまり過去世の断片のようだ」
「過去世?」
「そうだ。夢の中で僕はいつも、このグラナダ最後の王の王子だ。そしてスペイン人達に攻め込まれ、ついに国は滅びてしまう。そんなばらばらになった遠い過去の記憶の中で、もっとも強く魂に刻み込まれていた情景、今生への未練を残した情景だけを見ている……。そう感じたのは、僕がスペインに来て、この城を初めて訪れた時だったな」

 失われた過去世の断片……。

「そんなことが……、本当にあるんでしょうか?」
「さぁな」
 彼の顔に、ふいに人を魅了するような笑みが浮かんだ。思わずどきりとする。
「君がどう感じるかは、君にしかわからない。だが、少なくとも僕はそう感じている。そうとしか言いようがないな。だから最初に言ったろう? 言葉で説明すれば、荒唐無稽な御伽噺になると」
「もし、仰るとおりだったとして……、それじゃ、わたしはあなたの何だったの?」
「君は王子のハーレムの女の一人だ。そして、最も愛したキリスト教徒奴隷だったがゆえに、二人の身を滅ぼす結果になったようだ。あの夢は、王国最後の恋人達の悲惨な末路だな……」
 彼の瞳が苦々しげに翳った。だが、ジェイドはどうしても納得しきれなかった。
「そんなに愛していたのなら、どうして彼女を殺したんです? 彼女が何か罪を犯したの?」
「……いや。彼女は何もしなかった。ただ、過去世での僕を完全に虜にしただけで」
「どういうこと?」
「異教徒の女を王子が深く愛した。それゆえアラーが怒り、天罰を下されたのだと、だから戦さに敗れたと、我が軍の兵達が反乱を起こした。その隙をつくように、スペインの大軍が攻め込んできたんだ。我が国は完膚なきまでに敗れ、城も王国も全てを明け渡さざるを得なくなった」
「そんな……」
「ジェイド」
 静かな黒い瞳に、再び真摯な光が宿った。
「これはあくまで夢の中の物語だ。今生きている現実ではない。この不思議な夢も、僕達が互いを見つけ出した今、もう終わるだろう。僕は……、ここで待っていたのかもしれない。自分と国の運命を変える力を持つ運命の相手を……」


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13/11/12 更新