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 Chapter  13


 夕食が終わるまで、二人はぎこちなく黙っていた。
 その後子爵はローズの腕を取ると、ほとんど無理やり自分の居室に連れていった。ふた間続きになった部屋は、一室が居間、奥の部屋が寝室になっている。他の部屋と同様美しかったが、やはり室内の装飾は男性的で重厚だった。
 だが二人とも、今はそんなものは目に入らなかった。

 子爵が厳しい青藍の目をローズに向けた。
「さっきの話は聞かなかったことにするよ。明日朝食後、出発する。もう休んだほうがいいな。馬車でここからロンドンまではほとんど一日がかりだからね」
 言うなり彼女の腰に手を回し、抱き寄せようとした。それを慌てて手で制し、一歩下がって憂いを帯びた茶色の瞳で彼をじっと見つめた。

「今日のことは決して忘れませんわ。わたしの一生の宝物として、いつまでも記憶の中に残るでしょう。でもわたしは……」
 ローズの口調は逆らいがたい運命を受け入れるかのような、あきらめのこもった静かなものだった。同じ一日を過ごす中で、彼女が考えていたことに衝撃を受け、思わず身体が震えそうになるのを必死に押さえながら、ジェイムズは怒りのこもった低い声で、彼女を遮った。
「そんなことばかり言っていると、後悔することになるよ。君はもう完全にわたしのものだ。一年もかけてようやく捕まえたのに、今またあっさり手離すと思ったら大間違いだよ。無理にでも連れて帰ると、昨日言っておいたはずだがね。だいたいなぜ、今更そんな馬鹿なことを言い出すのか、さっぱり理解できないな」
 ローズは心底悲しそうに俯いた。
「わたしが今更どんな顔でサーフォーク家に戻り、あなたと結婚できるでしょう。それを上流社会のどなたが認めてくださるというのです? あのパーティの日に遅まきながら、わたしにもそれがはっきりわかりましたの。もっと早く思い至るべきでしたのに、あまりにも世間知らずでしたわ。本当にあなたの隣に立つ女性には、身分もあり自信があって、何でもおできになる社交界の花のような方、そう、レディ・アンナのような方こそふさわしいんです。盛大なパーティを切り回され、紳士方や奥様達をご立派におもてなしされるような……。レディ・アンナの他にも、そういうお嬢様は大勢いらっしゃいますわ。どうぞ、そういう方とご結婚なさってください、ジェイムズ。あなたを愛しています。だからこそ、できないんです。あなたの足手まといや、頭痛の種になるのではないかと、怖くてたまりません」

 彼は何だ、というように表情を和らげ、必死で訴えるローズを優しく引き寄せた。
「そんなことを心配していたのか。それならまったく問題なんかない。君がわたしと結婚してレディ・サーフォークになれば、今君が言ったようなことは、君にも立派に努められるさ。もちろん少し時間はかかるだろうが、回りも必ず認めるようになるよ。それはわたしが保証する。何をそんなに深刻に考えて、悩んでいるんだ?」
「ああ、あなたにはお分かりにならないんだわ……。生まれてからずうっと、そういう環境を当たり前のものとして、育ってこられたんですもの」
 ローズは絶望的な気持だった。どう言えば自分の気持をうまく伝え、納得してもらえるのだろう。
「わたしは自分の属する世界を、よく心得ているつもりです。住んでいる世界が違うと、あなた御自身がいつかおっしゃっていましたわね。あなたもご覧になって、おわかりになったはずです。わたしは旦那様や子供達のために、食事を準備したり、家を掃除したり、そういうことが向いている人間なんです。ロンドンの社交界の花になんてなれっこありませんし、ましてあんなに大勢の使用人に指図して舞踏会の準備を整えたり、他の奥方様達とオペラやドレスの話に華を咲かせることなんて、到底できそうにありません。それにきっと皆様の相手にもしていただけないでしょう。そうして、きっとあなたもすぐ不器用なわたしに嫌気が差し、結婚したことを、強く後悔されることになりますわ。そうなったらわたしは……、いったいどうすればいいんです?」

 彼はとっさに馬鹿なことを、と言いかけた。キスして自分の気持はそんなに軽々しいものではないと、分からせてやりたかった。だが、今の言葉の中に、それだけではすまされない、もう一つの問題が顔を覗かせていることに気付くと、何と言えばいいのか、わからなくなってしまった。
 それはお互いの生まれ育ちの違いに由来する問題で、取ってつけた礼儀作法とか社交辞令でかわせる問題ではなかった。ローズの混じり気のない鋭く純粋な感受性と聡明さを、まさにそれが彼女をこれほど愛するようになった大きな要因の一つだったのだが、彼は初めて恨めしく思った。
 他の女なら、欲得ずくの虚栄心の強い愚かな女達なら、貴族の仲間入りができるこんな素晴らしい玉の輿に、すぐさま有頂天になってしまうだろうに。

 潤んだ茶色の瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。自分が彼女の悩みを理解したことが、伝わったようだ。少し安心したように表情を和らげている。何か言わなければならない。このままでは、また彼女を失ってしまうのではないか。
 子爵は再び顔を覗かせ始めた恐れに心臓を掴まれるのを感じながら、強いて口を開いた。
「わたしがそれほど軽い気持で、君に結婚を申し込んだと思っているのかい? すべて考え抜いた上でのことなんだ。君が心配するようなことは何もない。だいたい、社交界の花だのなんだの、そんなことを君に要求した覚えはないし、やってみもしないうちから、馴染めないと決めつけるのも馬鹿げているよ。君の考え過ぎだ。もうそれ以上考えるのはやめるんだ。ややこしいことは、万事わたしに任せておけばいい。ほら、おいで」
 それ以上有無を言わさず、ほとんど力づくで彼女を抱きあげてしまった。
 抗いながらまだ何か言おうとする唇を、荒っぽいキスでふさいでしまう。弱々しい抵抗を無視し、そのまま彼女を寝室へと運んでいった。



 壁に点った仄かなランプの灯と、暖炉の炎が、ローズの陶器のように滑らかな顔を金色に照らし出している。
 ジェイムズはローズを天蓋付きのベッドにそっと降ろした。じっと彼女を見下ろしながら、自分もその隣に腰を下ろすと、右手を取って優しく口づける。
 ローズは仰向けになったまま、手に触れた彼の手と唇の温もりに微かに身じろぎした。今にも泣き出しそうな顔が、無言で彼を見つめ返している。
 潤んだ茶色の瞳に映る苦悩を見た時、ジェイムズは思わず呻き声をあげて、彼女の脚を押さえつけるようにのしかかった。そして彼女がいつも好んで着ている、彼女のこだわっている身分を象徴するような、いまいましい紺色の衣服の襟元を、力を込めて引っ張った。
 ボタンが胸元まではじけ飛び、露わになった白い首筋に、銀の鎖とエメラルドの指輪が煌いた。肌と指輪をしばらく弄んでいた彼の指先が、やがて敏感な鎖骨から、うなじへと辿り始める。熱い唇がそれに続いた。
 彼女が震え出すと、のしかかった姿勢のまま顔をあげ、目を細めてもう一度その顔を見つめた。ゆっくりと頭を下げ、彼女の唇を再び覆う。最初はそっと、ガラス細工にでも触れるような繊細さで、唇の輪郭をなぞり刺激していった。こらえきれずにローズが彼の頭をかき抱いた時、彼のキスは深まり、熱く激しくなった。
 花びらのような彼女の口を開かせ、容赦なく探り、むさぼるようなキスが続く。その時、閉じた瞼から涙が一筋、頬を伝ってこぼれ落ちた。ジェイムズはその涙を唇で拭い、顔中にキスを落とした。
 愛情のこもった深い眼差しに応えるように、ローズはかすかに微笑んだ。

 そう今だけ。今だけこのまま彼の腕の中で、何もかも忘れることができたら、もう何も要らない……。

 じっと横たわっていたローズが動いた。彼のすべてをもっと身近に感じるために、彼の着ているシャツのボタンぎこちない手つきで、一つ一つ外し始める。
 ようやくすべて外し終えた時、それまで驚いたようにじっとしていたジェイムズが、自ら着衣を脱ぎ捨てると、次にローズの衣服をも、剥ぎ取るように脱がせてしまった。
 今度はぴったりと胸と胸、身体と身体を重ねながら、再び熱く深い口づけを交わす。二人の舌が絡まり合い、手がお互いをさぐり始め、身体の敏感な場所を探し当てていく。
 薄闇に熱い吐息と呻き声だけが、時折交錯する。そのまま二人は、昨夜よりも更に濃密な時間の中に、すべてを忘れて沈み込んでいった。


 暖炉の火が燃え尽きようとしていた。
 ランプの仄かな光の中、激しく愛し合った後のけだるい余韻に浸りながら、二人は身体を絡ませ豪奢な天蓋付きのベッドに横たわっていた。
 まだ覆い被さった姿勢のまま、ローズの銀の鎖がゆれる白いうなじに顔を埋め、ジェイムズがくぐもった声で呟く。

「君を傷つけなかったかい? まったく君が相手だと、自制心もどこかへ消し飛んでしまうみたいだな」
 こう言いながらようやく身体を起こし隣に横になると、真剣な表情でローズを見つめた。彼女は大丈夫だと言うように少し笑って、上掛けを二人の胸元まで引きあげた。
 彼にも笑顔を見せて欲しかった。だがジェイムズは、笑っていなかった。ローズの顔をこちらに向けさせ、彼はかすれた声で言った。

「君があのパーティの夜、そんな風に感じていたとは思わなかったよ。確かにあの時は、君が欲しいと思う気持があまりにも強すぎた……。少し急ぎ過ぎたかもしれないな」
「もう、過ぎたことですわ」
「だが君の中では、まだ残ってしまっているようだね」
「現実を思い知ったに過ぎません。甘い夢から覚めただけ」
「現実だって?」
 彼女の額や頬に唇を這わせながら呟く。
「今、二人でこうしている。これ以上の現実がどこにあると言うんだ?」

 なだめるような愛撫を受けて、ローズは返事につまった。彼は更に、畳み掛けるようにこう言った。
「明日、わたしと一緒にサーフォーク邸に帰ってくれるだろうね? 今更、どうやって君なしで暮らせるというんだ。もう後戻りしようとしても遅過ぎるな。それに……」
 一瞬言葉を切って彼女の目を痛いほどじっと見つめると、ゆっくりと決定的な一言を付け加えた。
「君はもう、わたしの子を身ごもっているかもしれないのだから」

 最後の言葉を聞いた途端、激しい衝撃がローズを襲った。経験のない彼女は、そんなことは考えてもみなかったのだ。
 驚いて思わず起き上がると、ジェイムズも片肘を立てて身を起こし、空いている方の手で彼女を再び優しく腕の中に引き戻した。
「そんなに驚かなくても大丈夫さ。たとえそうでも、わたしと結婚すれば問題は何もないじゃないか」

 絶対に負けられない大事なチェス・ゲームで、突然、逆転のチェックをかけられてしまったようだ。あまりのことに、ローズはくらくらしながら、彼に抱き寄せられるまま、その腕の中に再び身を横たえた。
 彼の視線を痛いほど意識しながらも、ローズは目を固く閉じたまま、無言でいた。



 結局、二人はその後なお数日間、レイクサイド・ガーデンのヴィラに滞在した。話し合いは、どちらも譲らないまま、完全に膠着状態に陥っていた。
 もういい加減、ロンドンに戻らなければならない。説得を繰り返していた子爵の忍耐もついに底をつき、ローズのあまりの頑固さに腹を立ててしまった。
「いったい君は!」
 二日目の午後、怒りを抑えきれず、ジェイムズは激しくローズの肩を掴んだ。
「ベッドではあんなにも情熱を見せながら、結婚には同意しない! まったくこんな話は聞いたことがない! 妊娠の可能性だってあるものを。本当に身ごもっていたら、どうするつもりなんだ?」
「あなたにご迷惑は決してかけないと、お約束し……」
 ローズの言葉が終わらないうちに、パシンと乾いた音がして、子爵の手が彼女の頬を打っていた。
 ローズが頬を押さえて呆然としていると、子爵も信じられないと言うように自分の手を見つめ、それから彼女の顔を見た。
 青藍の目から激しい怒りが消え、代わりに強い疲労の色が浮かぶ。
「もうやめてくれ。これ以上こんな言い争いはしたくない。お願いだ。自分が、どんなに無謀なことを言っているか、冷静になってよく考えてみてほしい」
 低い声で哀願するように言うと、彼はくるりときびすを返し、部屋を出ていってしまった。

 ドアが閉まると、ローズは両手で顔を被って近くの椅子にくずれるように座り込んだ。泣くまいと必死に押さえていたが、こらえ切れずに涙が溢れ出す。
 ジェイムズをひどく傷つけてしまった。自分などを探すために一年も費やし、おそらくはイングランド中を探してくれたに違いない彼を。
 それほど求められるような価値が自分にあるとは、到底思えないものを……。
 そして今の彼に対し、あまりにも残酷なことを言っているのは、ローズもよく承知しているのだ。こんな思いをするよりはいっそ、愛人になれと言われた方がどんなにましか、とさえ思ってしまう。
 だが、彼はプロポーズの言葉を繰り返すばかりだったし、それには二度と、イエスと答えることはできないローズだった。

 この二日間、こんなふうに言い争う間にも、今までの積もり積もった思いに駆り立てられるかのように、二人は幾度も繰り返し愛し合った。
 夜はもとより時には昼間の光の中でさえも。愛を交わせば交わすほど、思いは一層募り、さらに離れがたい気持になるのはわかっていたが、もはや、ローズには彼を拒むことなどできなかった。求められればそれに応え、時には彼女の方から愛撫やキスを求めて、身体を寄せていく時さえあった。
 だがそれは、すべてから切り離された『今日』この時だけに許された、束の間の特別な歓び。『明日』が来れば二人はまたそれぞれの位置に、戻らなければならないのだ。

 子爵には、そんな彼女の頑なさが理解できなかった。
 ずいぶん忍耐強く彼女の気持を聞いてやり、その悩みを理解しようと努めたつもりだった。シークエンドで洗濯を楽しそうに干していた姿や、先日、自分のために朝食を整えていた姿を思い出しながら、最大限妥協して、そうしたいなら、結婚した後もたまには家事でもすればいい、とまで言ったほどだ。
 一番大切なのは、そんな身分や生活環境の問題ではなく、ともにいたいと思うお互いの気持ではないのか。自分が彼女を愛しているのと同じくらい、とはとても言えないかもしれないが、彼女も自分を愛してくれているのは間違いないのに。
 だがローズは、自分はサーフォーク家に相応しくないと言い張り、絶対に譲らなかった。もっとあなたにふさわしい高貴な令嬢が、他に多勢いる。今は結婚したいと思ってくれていても、後々必ず後悔するに決まっている、と。いつもそこから結局、こんな言い争いになってしまうのだった。
 その夜も、同じだった。

「わたしがそんなに信じられないのか? 他の令嬢と結婚しろだと? よくもそんなことが言えるものだ。では聞くが、君はそれでも構わないと言うわけか?」
 頑固に言い張るローズを苛立たしげに見すえ、子爵が冷たく問いかける。
「答えてくれ。君はそれで平気なのかい?」
「いいえ、もちろん平気でなんか……」
 視線を逸らし口ごもるローズを見て、彼は諭すような口調になった。
「なら、そんなことを口にするのはやめるんだ。君はただ一言、イエスと言えばいい。一年前のように、素直にね」
「……結婚は、できません」
「君はいったいわたしにどうしろと言うんだ? 君の前にひれ伏して懇願しろとでも言いたいのか!」
 また爆発しそうなかんしゃくを、必死に押さえつけている彼の様子に、ますます切なさが募る。
 ローズはとんでもないと言わんばかりに激しく首を振り、彼の腕に身体を預ける。彼も決して放すまいとするかのように、力いっぱい抱き締めた。
 こうして、愛すればこそ、絶対にイエスと言えないローズの思いと、何としてもイエスと言わせようとするジェイムズの思いは、噛み合わないまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていった。



 数日後、ついにローズは一歩折れた。子爵に、それならばロンドン郊外に住む母方の伯父夫婦のもとへ、自分を送ってほしいと頼んだのだ。
「君がサーフォーク家に来る前に、少しの間厄介になっていたと言う伯父さんの家かい?」
 子爵は考え込みながら、彼女の顔を見ていた。今日は朝から顔色があまりよくない。少し疲れているようだと思った。
 それにその申し出は道理に適ったものでもあった。結婚前から同居しているのでは、結婚後も新しいレディ・サーフォークに対し、良い風聞は立たないだろう。
 自分は気にしないとしても、ただでさえ神経質になっている彼女が、ますます参ってしまうに違いない。
 また求婚の手順としても、彼女の保護者ならば申し込みをし、承諾を得なくてはならない。もちろん、普通はまず本人の承諾を得た後の話なのだが。

「わかった。仕方がない。ではそうしよう」
 しぶしぶ、子爵がこう答えた時、ローズは不安そうに彼を見返した。
「伯父達には、何も、おっしゃらずにいてくださいますわね?」
 恐る恐るそう切り出すローズに、彼の眉が上がる。
「まさか。君の保護者なら、結婚の許可を受ける義務があるだろう。事の次第をお話しして、了承してもらわなければならないじゃないか」
 ローズはそれを聞くなり、唇をかんで俯いてしまった。翌朝、二人はロンドンに向けて出発した。


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patipati
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12/04/18