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 Chapter  15


 ローズはその翌日、丸一日、部屋に閉じこもっていた。食事にも手をつけないと、オリビアが心配そうにこぼす。

「パトリック、あなたにお願いがあるの」
 それから二日後の朝、出かけようとしたパトリックをローズがそっと呼び止めた。
 髪をきっちり一つにまとめ、彼女らしくこざっぱりと身支度を整えている。顔色はあいかわらず青ざめやつれていたが、打ちひしがれた様子は消え、態度にはどこか毅然とした所が窺えた。
「大丈夫かい?」
 気遣わしげにその青い目を向ける従兄に向かって、ローズは気丈に微笑んで見せた。
「ええ、ありがとう。心配をかけてしまったわね。もう、大丈夫よ」
 そして手にした手紙を、そっと彼に差し出した。
「これを、サーフォーク子爵に届けてくれないかしら」
 パトリックはしばらく躊躇していたが、結局それを受け取り、黙って肯いた。

「中にとても大切な物が入っているの。絶対になくさないで、必ず子爵様に直接お届けしてちょうだいね」
「子爵が僕に会ってくれるかどうか、わからないけど」

 心許なげな従兄を見て、ローズは繰り返し念を押し、ようやく肯かせることができた。
 彼女の表情から緊張が解け、ほっとしたように見えた。まだ青ざめたその顔と、泣き疲れたような赤い目を見て、同情の念が湧き起こってくる。パトリックは自分にできる限りのことは、してやろうと思った。きっと自分などには想像もできないほど、辛い思いをしたに違いないのだから。
 手をあげて出ていくパトリックを見送るローズの目に、再び涙が溢れてきた。必死でこらえるように口に手を押し当てながらも、再びむせび泣いていた。


 子爵が自分などに、直接会ってくれるかどうかが一番問題だな。そう考えながら、パトリックはサーフォーク子爵邸の扉の前に立つと、深呼吸して重いノッカーを叩いた。出てきた執事に自己紹介をし用件を告げたとたん、執事の顔色が変わったのがわかった。
「旦那様にお知らせしてきますので、少々お待ちくださいませ」
 慌ただしく引っ込むと、数分後再び出てきた。
「こちらへどうぞ」

 ブライス執事に案内され、パトリックは、初めて貴族の邸に入った。高い天井、広い廊下に格調高い豪奢な内装、どっしりとした年代ものの家具調度類。廊下の壁にかけられた騎士や貴公子達の肖像画を目にし、圧倒されてしまう。
 自分の上着のほこりを払い、こんなことなら、日曜礼拝用の一番よい服を着てくるべきだったとひそかに後悔した。それでも精いっぱい威厳をもって、彼は案内された書斎に入っていった。

 子爵はまだ起き抜けの様子だった。シルクのシャツに黒のズボン、その上に銀糸で縫い取りのされた黒いガウンをはおっただけという軽装のまま、窓から外を眺めていたが、ドアが開く音に振り返ると、すぐに彼の方に歩み寄ってきた。
 ていねいに椅子を勧め、自分も向かいの椅子に腰を下ろす。メイドがすぐさま、お茶を運んで来た。
 パトリックが手にした帽子をいじりながら、緊張した面持ちで形式ばった挨拶を始めると、少し苛立ったように手を振ってそれを遮り、子爵は単刀直入に尋ねた。

「彼女はどうしている?」
 そのかすれた声にはっとしながら、彼は、ローズから預かってきた手紙を差し出した。
「実は、ローズマリーからこれを閣下にお届けしてくれと頼まれ、こちらに参りました。彼女もずいぶん辛そうですが、昨日よりは少し、元気になってきたかもしれません」
 手紙を手に取った瞬間、子爵がぎくりとしたように青藍の目を見開いたのが分かった。手紙と一緒に中に入っている何かのせいだろう。それが何なのかパトリックには知る由もない。
 だが子爵は事もなげに礼を言うと、お茶を勧めながら、ハワード商会の事業のことなど少し口にした。やがてパトリックは一礼して帽子を被り直し、書斎を後にした。彼が扉を出てしまうまで、子爵は普段通りに見えた。

 ようやく一人になった時、ジェイムズはゆっくりと机に戻り、引き出しを開けながら、手の中の手紙を見た。
 美しい筆跡で彼の名が書かれた封筒。その中に感じる硬い小さなものの感触に、ぞっとしながらペーパーナイフを出して開いてみる。手の中に彼女に渡したあのエメラルドの指輪が音もなく落ちた。白い便箋にはただ、

「どうかもう、いらっしゃらないでください。これ以上お目にかかれません。
  あなたのお幸せを、いつも心からお祈りしています。  ローズマリー・レスター」

 とだけ記されていた。彼は思わずその手紙を、手の中で握りつぶしていた。



 午後になるのをじりじりしながら待って、子爵は再びハワード家を訪れた。
 オリビアからローズは留守だと言われたが、納得できず、無理を言って彼女の部屋にまで入れてもらう。テーブルと椅子、狭い寝台とチェストが置かれただけの狭い空間は、こざっぱりと片付いていた。

「いったいどこへ行ったのだろう? ご存知ですか」
 眉をひそめる子爵に、オリビアはしきりに恐縮しながら答えた。
「それがその、何やら新しい勤め口を探すとか申しまして、出かけてしまったのです」
「新しい勤め口? それはどういうことです?」
 彼の肩がさっと緊張した。
「はい、本当に困った娘で」

 その後、誰に似たのか頑固者で、とか私共は口をそろえて子爵様のお申し出をお受けするよう説いたのですが、などと繰り言のように続くオリビアの言い訳を聞き流しながらも、子爵の気持は治まらなかった。

 荒れ狂う胸の内を何とか表に出さずにいられたのは、彼のプライドと日ごろの訓練の賜物だった。また来ますとていねいに言い置いてハワード家を出たものの、このままここで彼女が帰ってくるまで待つつもりだった。
 彼の中でオリビアの言葉が渦を巻いていた。
 新しい勤め口。そして短い手紙とともに送り返してきた婚約指輪……。
 ではやはり、それが彼女の答えなのか。もはや彼女は自分から完全に離れて、新しいスタートを切ろうとしているのだろうか?

 考えるだに強い苦痛が全身を襲い、耐えられないほどだった。昨夜も寝付かれないまま、何度も寝台で寝返りを打っていた。彼女が最後に見せた後姿。それを見た時、つい先日、彼女の甘い吐息を胸に感じながら眠ったことが、現実だったとは信じられないほど、遠ざかっていくような気がした。

 とにかく彼女に会わなければならない。会えばこんな不安はすぐ消せる。そして二人の本来の関係を取り戻せるはずだ。束の間とはいえ、あれほど親密にすべてを分かち合って過ごした関係が、短い手紙一つで失われる訳がない。第一あの文面が、彼女の本心からのはずはないのだから。
 子爵家の馬車を少し先にやって、建物の影に立ち人が行き交う往来を睨みながら、ひたすら待ち続けた。寒かったが、心の苦痛があまりに大きくて、そんなことはすっかり忘れていた。


 どれくらいそうしていただろう。ようやく、角を曲がってフード付きのマントをまとったローズが姿を見せた。
 ゆっくりと歩み寄ると彼女の前に静かに立つ。子爵に気付いた途端、彼女の顔色が変わり、全身がさっと緊張した。

 子爵はローズの前に立ち、その顔を一瞥した。すぐに泣きはらした赤い目と涙の跡に気付く。彼の緊張が少し緩んだ。
「泣いていたのか? 馬鹿だな。そんなに泣くくらいなら、どうしてあんな手紙をよこしたりした?」 
 思いがけず穏やかな彼の声に、ローズははっとしたように、頬に手を当てた。
「指輪をどうしても、お返ししなくてはならなかったんですもの。あんな大切なものを、これ以上一日もお預かりしていることはできませんから。それに……」
 ローズがあきらめたように、彼を見あげて話し始めたのを遮ると、その腕を取って馬車の所まで有無を言わさず引っ張っていった。
 彼女を馬車の中へ押し込むように乗せ、抗って出ようとするのを押し戻しながら自らも乗り込むと、ドアを閉めてしまった。


「あなたって方は……。本当に無茶苦茶だわ」 
 突然馬車に閉じ込められたような格好になり、ローズは口調に非難を込めて、あきれたようにため息をついた。ジェイムズの口元に、苦笑が浮かぶ。
「普段なら、こんなことは絶対にしないさ。往来で話なんかできないだろう。ハイドパークかどこか、もっと静かな場所へ行かないか」
「いいえ、もうどこへも行きません!」
 顔色を変えた彼女を見て、彼は目を細めた。御者に命令を出すのをやめ、そのまま向き合う。
「よかろう。ではここでも構わない。ずいぶん長い外出だったな。いったいどこへ行っていたんだ?」
「………」
「君の伯母上は、君が新しい勤め口を探すと言っていたと教えてくれたが」
 あいかわらず静かな口調で彼がこう促すと、ローズは覚悟を決めて顔をあげた。
「ええ、そうですわ。また何か仕事をしなければなりませんもの」
「何のために?」
 忍耐強く問いかける子爵に、強ばっていたローズの口元にもかすかな笑みが浮かぶ。
「生きるために、ですわ」
「必要な費用なら、いくらでもわたしに言えばいい」
 言いかける子爵に、彼女はすぐ首を横に振った。二人はしばらく無言だった。

「どうしても、君の気持は変わらないのか?」
 長い沈黙の後、再び問いかける彼の声には絶望的な響きが込もっていた。
 今度はその顔を正視できず、目をそらせたままローズは小さく肯く。彼女の口調には強いあきらめが混じっていた。
「何度お尋ねくださっても答えは同じですわ。わたしには所詮無理なんですもの。ですから、もうこれ以上お会いしないほうがいいんです。どんなに辛くても」
 こう言いながら、目に再び涙が浮かんできたが、彼女はそのまま続けた。
「どうぞもう、わたしのことなどお忘れください……」
「無理だ、無理だと、そんなふうに決めつける前に、どうしてお互いのために、もう一度やってみようとすらしてくれない?」

 彼の声がかすれ、顔が苦悩に引きつった。涙をこらえるように黙って目を伏せるローズを見つめるジェイムズの中に、今まで抑えに抑えていた狂気にも似た激情が沸き上がった。
 目の前で俯いている女の両腕をぐっとつかむと強引に引き寄せ、自分の膝の上に抱きあげる。驚いて顔をあげたローズに、彼の唇が荒々しく覆い被さった。彼女の頭を片手で動けないように押さえつけ、息もつけないほど激しく口づける。
 彼女を罰したいのか、愛を訴えかけたいのか、その両方なのか、もう彼にもわからなかった。ただ分かっているのは、彼女を失いたくないという、気も狂いそうな切望だけだった。今彼女を自分の手中にとどめておくことができるなら、その望むことにはどんなことであれ、嫌とは言わなかっただろう。だが皮肉なことに、彼女はそんな類の女ではないのだ。
 キスを続けながら彼のもう片方の手が、もどかしげに彼女のマントを払い、衣服の前ボタンをはずしていく。開いた胸元から手を滑り込ませ、その長い指が柔らかさとぬくもりを確認するように、彼女のきめこまかな肌の上をたどっていった。
 ローズの喉から、切なげなうめき声が漏れた。突然の激しいキスと愛撫に無理矢理目覚めさせられた感覚が、彼を求めて叫び始める。
 でも、いけない! 彼女の理性はひたすら警告を発し、その一方で彼女の感情は彼女を裏切り、やめてはいや、もっともっとあなたがほしいと声の限りに訴えていた。
 ついにローズはじっとしていることができなくなり、両手を彼の首に巻きつけて、夢中でキスに応えていた。

 唐突にジェイムズは顔をあげた。その青藍の目が勝利感に煌いた。
「ほら、君にもわかるだろう? わたし達はまだお互いを必要としているんだ。離れることなど絶対にできやしない」
 情熱に曇った茶色の瞳を覗き込み、熱っぽくこう囁きかけながら、再び唇を重ねる。そのまま彼女の柔らかな唇を更に幾度もむさぼった。どんなに求めても、飽き足りることがないようだった。逆にもっともっと味わいたくなる。
 しばらくしてようやく、自制心を引きずり出したかのように、彼は抱擁を緩め顔をあげた。二人とも息が切れ、彼女の唇は赤くふっくらと腫れていた。彼女の目の中にまだくすぶっている激しい情熱を確認し、子爵はそっと微笑みかけた。
 だがローズは夢から覚めたように瞬きすると、慌てて元の席に戻り、貴婦人のたしなみを取り戻そうとするように、震える手で衣服を整え髪に手を当てた。
「またこんなことをしては、いけなかったのに」
 まだ情熱の名残を残す目を子爵から逸らし、小さな声でポツリと呟く。
「いけなくなんかないさ」
 ジェイムズが再び優しく取ろうとした手を素早く引っ込めると、ローズは彼を見あげた。
「いいえ、今お返事した通りですわ。もうこれ以上お会いできません」
「ローズマリー!」
「子爵様……。どうぞ、わかってください」
 目に熱い涙が膨らんでくる。彼女は震える手で馬車のドアを闇雲に押し開けると、往来へ飛び出した。
「もういらっしゃらないで。本当にさようなら。」
 振り返り際に叫ぶようにそう言うなり、彼女は、いそいで捕まえようと伸ばした子爵の手を擦り抜け、まっすぐ家に向かって走り去った。彼にはただ見送る以外、どうすることもできなかった。



 しばらくの間、彼女が走り去った通りを、焦点の合わない目で見つめていたジェイムズは、やがて馬車の座席にがっくりと崩れるように座り込んだ。頭をビロードのシートにもたせ掛け、力なく目を閉じる。
 終わりだ。もうこれ以上なす術は何一つない。今度こそ彼女は本当に自分のもとを去ったのだ。

 一年前、一言も言わずに消え失せてしまった恋人を、探して探してようやく見つけ出し、この手に取り戻したとほとんど信じかけていたのに。結局、あのじりじりするような長い探索と努力の日々は、この避け難い現実をただ確認するためだけだったのか? あまりの皮肉さに、思わず苦い笑いが込みあげてくる。
 こんな別れをもう一度味わうくらいなら、いっそ再会などしなければよかったのだ。これでは出会わなかった方がまだましではなかったか。はっきりと答えを聞かずに済む分だけ、直接的な傷は浅かっただろうに。そう考えた途端、ずっと逃げ回っていた彼女の行動の理由も、ようやく飲み込めた。彼女は再会した時から、この日を避けられないと思っていたのだ。
 だが、それでも彼女は、確かに自分を愛してくれていた。それだけは間違いない。そうでなければどうして、あれほど情熱を込めて、すべてを捧げ尽くしてくれるだろう。
 眼差しにも声にも、彼女の思いは溢れていた。さもなければ、自分もあれほど性急に求めたりはしなかった……。

 たった数日、そう正確にはレイクサイド・ガーデンで過ごした五日間に過ぎなかったが、彼女は自分の心を容赦なくそっくり掴み取ってしまった。それなのに、この先得られる二人の未来を考えてもみずに、思い出だけを残し、自分の前から完全に去ってしまうと本気で言うのだろうか。
 それも自分にとっては、まったく理由にもならないような理由のためなのだ。だが彼女にとって、レディ・サーフォークになるということは、それほどまでに重荷だったのか。

 サーフォーク子爵も紳士として、もとより、求婚を断られた時いかに振る舞うべきかは、よく承知していた。そして彼自身、かつて未練がましく、ぐずぐずしている友人を見て、情けない奴だと軽蔑していたのだ。それがこのていたらくだ、と自嘲しながら、彼は片手で目を覆った。
 愛は、人を愚者にする。時には破滅させることもあり得る。例え誰に何と言われようと、彼女を忘れることなどできそうになかったが、この先どうすればいいのか、もはや彼にもまったくわからなかった。



 二月の初めに、ローズは一年ぶりに新聞に広告を出し、ロンドン市内と近郊の町に、家庭教師か学校の女教師の口を探し始めた。
 ミッチェル伯父はそこまでしなくても面倒は見ると言ってくれたが、やはり伯父達の好意に甘えるより、何とか自立して生きていきたいと思ったからだ。
 子爵はその後一度だけ、ハワード家を訪ねてきたが、それは単なる社交的訪問で、彼女のことには直接触れもしなかったようだ。また彼女も決して会おうとしなかった。
 結婚できない以上、本当にもう終わらせなければならない。これ以上会っても、お互いの傷を深めるだけだ。
 昼間は伯父の商会を手伝い、しばらくの間は夕方遅く帰るようにした。だが彼もついにあきらめたのか、その後は一度も訪ねてこなかった。

 夢も希望もない空しい日々の中でも、とにかく生きていかなければならない。そのためにはなすことを見つける必要があった。
 夜ごと、彼に愛される生々しい夢を見て、優しい手と見つめる熱い青藍の眼差し、最後に自分の名を呼んだ彼の悲痛な声を、追いやることもできないまま、寝台の上で悶々とせずに済ませるためにも。
 思い出すだけで目に涙が浮かび、心が苦痛で引き裂かれそうになる。お互いのために、これが最善の道だったのだと、どんなに自分に言い聞かせても無駄だった。例え一時的にせよ、彼を傷つけたと思うと、本当に苦しかった。
 くたくたになるくらい疲れ切れば、きっと夢も見ないでぐっすり眠れるに違いない。



 だが、時は容赦なく、もう一つの避け難い現実を運んできた。
 少し前から、ローズは自分がひどく疲れやすくなっているような気がしていた。精神的にいろいろあったせいだと思いたかったが、いつも身体がだるく目眩がすることもある。そう言えば月のものが一月近く遅れていると、思い当たって愕然とした。
 もしかすると……子爵が心配していたとおり、本当に彼の子供ができたのかもしれない。

 意外にも、最初のショックの次に込みあげてきたのは、深い心からの喜びだった。
 たとえそのために、自分の人生がどんなに大変なものになるとしても、彼女は嬉しかった。
 思いもかけず、たった一人の愛する人の子供を産むことが叶うかもしれないのだ。
 たとえ彼にはもう二度と会えなくても、彼の子供とともにこれからずっと生きていけるなら、どんな人生でも幸せと言えるのではないだろうか。

 もちろん、彼に知らせるつもりは、まったくなかった……。


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12/04/20