Chapter  5


 翌日、午後のお茶の時間、ローズはキングスリー夫妻に呼ばれ、久しぶりに部屋の外に出た。
 足取りもしっかりしていて、自分で思った以上に回復しているようだ。これならもう下宿へ帰れそうだと思った。だがそう言えば、バンリー夫妻から、家賃滞納で部屋を追い出される可能性もある……。
 忘れていた現実問題が再び甦り、ローズは頭が痛くなった。ああ、それならいっそ、結婚はしないという条件で、この話を引き受けることにしよう。

 ようやく心を決めると、ローズはメイドに案内されるまま、キングスリー家のサロンに入っていった。
 そこにはキングスリー夫妻と息子のジョージ、そしてメアリーの他に、その牧師らしい人物も座っていた。メアリーのローズに対する敵対心は、どうやら昨日の対話で消えたようだ。
 あれこれ悩んだ末だったが、ローズにとってこのお茶の時間は、久しぶりの社交的なむしろ楽しい時間とさえ言えた。キングスリー氏と息子のジョージは、元来温厚な人物だし、また当のウォリス牧師も話題が豊富で、学識も豊か、まじめそうな好青年と言えた。
 時々ローズのほうを見ながら、ていねいに話しかける。主に学校のことや、村での生活のことだった。夫人のややオーバーなものの言い方が気になったが、おおむねローズのことをほめているもので、二人の話をまとめたいという思いが、言葉の端ばしに表れていた。

 ウォリス牧師が、たいそう楽しいお茶の時間だったと感謝を述べて、また伺ってもよいかと尋ね、夫人の了解を得て帰ってしまうと、夫人は嬉しそうに目を輝かせて、メアリーとローズに言った。
「まあ、なかなか立派な方じゃないですか。知識も教養も素晴らしいし、人格的にもお若いのに優れた方のようにお見受けしますわね。ミス・レスターにぴったりじゃないかしら。向こうはあなたがお気に入ったようですよ。ミス・レスター、あなたはいかが?」
「え、ええ、もちろん……」
 悪い方ではないと言おうとしたのだった。だが、それを聞くなり、顔をほころばせた夫人は、ローズに最後まで言わせずに声をあげた。
「まあ、あなた、お聞きになった? この方もお気に入ったようだわ。それならこんないいお話は、延ばす理由など一つもありませんよ」
「お待ちください、わたし何も」
「いえいえ、全部わたくし達に任せておけばいいのです。あなたは何も心配入らないのよ」
「困ります。あの……」
「善は急げと言うではありませんか。来週にでもシークエンドの方に行って牧師館で暮らせるように準備を整えなくてはね。結婚式は、そうね、何しろ牧師様の結婚式ですから、ここの教会の牧師様が執り行われるのが、格から言ってもよろしいわね」
「奥様……」
 ローズは最後まで考えを述べることもできなかった。際限なく話し続けるキングスリー夫人になかばあきれていたが、とんでもない結論が出そうになり、慌てて遮った。
「申し訳ありませんが、それはお待ちください。以前にも申し上げましたように、わたしはまだ、どなたとも結婚する気持はないんです。ただ、シークエンドの牧師館に、お手伝いとしてでしたら、喜んで行きたいと思いますわ」
 夫人は夫と顔を見合わせた。二人はしばらく考えているようだったが、やがて夫人が口を開いた。
「まあ、お気持はわかりますよ。何しろ急な話ですしね。ではそうね。まず、シークエンドの村を見に行って、牧師館や村の人に会ってみるというのはいかが? 向こうの様子も知りたいでしょう?」
「はい、できましたら」
「ではあなたのお身体が完全によくなったら……」
 ローズはふいに、『十日ほどで帰ってくる』と言った子爵の言葉を思い出した。日数がもう僅かしか残っていない。できることなら、彼が帰ってくる前に是非とも向こうへ行ってしまいたいと思った。彼がメアリーを抱擁している姿が目にちらつく。花嫁を連れて再び出ていく姿を見ることなど、到底耐えられそうにない。彼女は衝動的に決心した。
「わたし、もうすっかりよくなりました。もしよろしければできるだけ早く、明日にでも行かせてくださいませんか」
 急き込むローズにキングスリー氏はしたり顔で頷いた。
「では、その旨ウォリス牧師に伝言するとしよう。彼も喜ぶに違いないですぞ。馬車の支度ならいつでもできる。明日の午後でよろしいかな? あなたをシークエンドまで送ってあげましょう」



 空には、どんよりした冬の雲が広がっていた。ローズが馬車に乗ってシークエンドに到着したのは、キングスリー夫妻に手厚く礼を述べて屋敷を出発してから二時間後の夕刻近くのことだった。
 キングスリー氏の命に従い、御者は極めて慎重にゆっくりと馬車を走らせていった。どこまでも続くなだらかな枯れ色の丘陵地の合間に、時折牧場が見え隠れする中、進んでいくとやがて行く手にシークエンドの村が見えてきた。
 村に入るとすぐに教会の尖塔が見えた。左手に墓地がある。牧師館も近くにあるに違いない。
 やがて、馬車が古びた煉瓦造りの建物の前に止まった。どうやら着いたようだ。ローズが馬車を降りると、ウォリス牧師がこちらに向かって歩み寄ってくるのが見えた。

「やあ、いらっしゃい。ようこそシークエンドの牧師館へ。お待ちしていましたよ」
 牧師は嬉しそうに笑顔でこう言うと、御者に礼を述べ、ローズの荷物を持って彼女を館の中へ案内した。
 玄関ホールを入った所に、大きめの居間があり、村人達が集うラウンジが設けられていた。どうやらそこが食堂もかねているらしい。痩せた年配の婦人が、暖炉にかけた鍋を、大きなさじでかき回していた。
 黄色いランプの光の中でも、館内の様子は見て取れた。少し埃が積もり、足元の敷物も洗濯の必要がありそうに見えた。彼女の視線を追った牧師が、きまり悪そうに言った。
「お見苦しい有り様で申し訳ない。実はいつも手伝いに来てくださるご婦人が今留守でしてね。ミセス・ファーラー一人ではなかなか手が回らないのです。少し散らかっていますがどうぞ辛抱してください。さあ、こちらへ」
 そう言いながら、彼はローズを二階の客室へ案内していく。
 それでも客室はきれいに整えられていた。ローズは着替えながら、ほっと落ち着くのを感じていた。やはりキングスリー家では何となく居心地が悪かったのだ。
 ミセス・ファーラーの給仕で牧師とともに和やかに夕食を取りながら、ローズはウォリス牧師に好意を持ち始めていた。
 頭は切れるが温厚な人物だ。何より、ここの村人のためによき牧者たらんと努力しているのが、ありありと伝わってくる。この人とならきっといい友人になれるに違いない。彼女は嬉しく思った。
 寝室に引き上げるころには、さすがに疲れきっていた。早々にベッドにもぐり込む。明日からここで働こう。ここにはやるべき仕事が山のようにある。あれこれ思い悩む暇もないくらい忙しくしていられるだろう。
 だが、目を閉じたローズの瞼の裏に、やはり子爵の顔が浮かぶことだけはどうすることもできなかった。



 翌日から、ローズは早速行動を開始した。
 手始めに二日がかりで牧師館の大掃除をした。髪をリボンで一つに束ねトランクから白いエプロンドレスを引っ張り出して身につけると、ミセス・ファーラーにあれこれ尋ねながら、居間から、客室、廊下まできれいに掃き出して、モップをかけていった。牧師は恐縮して何度も止めたが、彼女は頑として譲らなかった。
 寒いさなかだったが洗濯もした。敷物やテーブルクロス、リネン類などを次々に洗濯し裏庭に干していった。終わって振り返ると、ウォリス牧師があきれたような表情で立っていた。寒風にひるがえる洗濯物を指し示し、得意げにローズは言った。
「いかが? きれいになったでしょう? 気持いいじゃありませんか」
 牧師はまいったと言うように頭を振りながら、空になった洗濯桶を取りあげた。
「まったく、最近まで病気だったあなたに、こんなことまでさせてしまっては、わたしがキングスリー氏に叱られてしまう」
「では、何もおっしゃらなければよろしいわ」
 ローズが笑いながら応えると、牧師もつられて笑った。二人は一緒に館に戻っていった。

 ラウンジにはお茶の支度が整っていた。二人は向かい合って席に着いた。
 お茶を飲む間、牧師は彼女を見ながら何事か考えているようだったが、やがてこう尋ねた。
「あなたはもしや貴族の家柄のご出身ですか? もしくは元貴族の?」
「いいえ、父は役場の下級官吏でしたが、貴族ではありませんでした。どうしてでしょう?」
「あなた身のこなしや言葉使いには、普通の中流階級のお嬢さんとは思えないものがあるからですよ、ミス・レスター。だがそれにしては、掃除や洗濯の仕方もご存知のようだ。そういう所も不思議に魅力あるお嬢さんですね、あなたは」
「………」
「あなたの評判はソールズでも伺いました」彼の目が真剣味を帯びてきた。
「いろいろ学問や知識をお持ちのようだし、教え方もうまいと皆誉めていました。もちろんあなたの美しさについては、わざわざ言うまでもないことですが」
「お待ちください……」
 ローズは会話の雲行きが怪しくなってきたのを感じ、慌てて口を挟んだが、彼はついに決定的なことを口にした。
「いかがでしょう。あなたほどの人にシークエンドに来ていただけるなら、これほど嬉しいことはありません。このお話を真剣に考えてみていただけないだろうか。わたしには、これが主の導きのように思えるのですが」

 口の先まで出かかった断りの言葉が、再び引っ込んでしまった。ウォリス牧師の真剣な表情を前にローズは一瞬ためらった。今ここでイエスと言ってしまいさえすれば、自分の人生にまったく新しいページが開かれるのだ。この人は悪い人ではない。それどころか善良でとても優しい人のように思える。二人の間に炎のような情熱はなくとも、お互いに尊敬し合い、手助けし合いながら 暖かく楽しく暮らしていけるに違いない。この新しい土地で一生の目標ともなる有意義な仕事とともに。ローズは懸命に自分を説得しようとした。
 だがその瞬間、彼女の中に、一年前の子爵のプロポーズがよみがえってきた。そして、心からの喜びとともにそれに答えた自分自身。突風のように自分をさらってしまった、彼の激しい情熱……。
 まだあれから一年少ししか経っていないとは、信じられないことだった。何もかもが変わってしまった。だがただ一つ、自分の気持だけはまだ変わってはいない。
「お気持は大変ありがたいのですが……」
 ローズはどう言えばいいものかと迷い、言葉を探した。
「結婚はできません。ですがあなたのなさろうとする仕事のお手伝いなら、喜んでしたいと思いますわ。ここに住むのが難しければ、どこか近くにわたしを下宿させてくださるような家庭はないでしょうか」
 ローズの返事に牧師は顔を曇らせた。ここまで出向いてきた彼女が、まさか断るとは思っていなかったのかもしれない。彼女をじっと見ながら本意を探っているようだ。
「そう慌てて結論を出されず、少し考えていただけると嬉しいのだが。なぜだか理由を聞かせていただけますか?」
「それは……」


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12/04/09