Chapter  6


 その朝、子爵はソールズ村へ向かう馬車の中にいた。後一時間ほどで着く。この八日間は実にのろのろと過ぎていった。

 ロンドンに戻った彼を待っていたのは、彼の留守中に積みあげられた手紙の束と、日常茶飯事とも言える、無味乾燥な所用の数々だった。内心苛立ちながらも、子爵は出席すべきパーティで社交的会話をひねり出し、彼の関心を引こうと近づいてくる令嬢達は、失礼にならない程度に相手をして追い払った。
「なんだ、機嫌が悪いんだな」と、友人達があきれるほどだった。
 こじれた取引先との関係修復のため、相手の屋敷に出向きカードに興じるふりもした。なすべき義務を彼は黙々と果たしていた。まったく大いなるなすべき義務だ! こんなことはすべて放り出し、今すぐ彼女に会いに行きたくて、内心うずうずしていると言うのに。
 ローズマリーはもう元気になっただろうか。彼女を再び見つけ出した喜びは、彼の中で日増しに大きく膨らんでいた。今の生活の中に欠けているのは彼女だ。彼女の存在が、自分の中でどれほど大きな慰めと希望になっていることか。
 一年前、自分のプロポーズを受けて、貴族社会の様々なしきたりや作法を学ぶために、懸命に努力してくれた彼女がどれほど愛しかったか、まだ話してもいない。今まで話す機会さえもなかったのだ。必死に探してようやく再会した途端、彼女が病床についてしまったときには、心配のあまり眠れなかったほどだ。病後の少しやつれた彼女を見るたび、腕に抱きしめずにいるには、鉄の意志が必要だった。

 だがもうこんなことはおしまいだ。今度捕まえたら、二度と自分の側から離さない。おせっかいな親族共が何を言おうと、どんなに反対しようと構うものか。今度こそ彼女を妻にして、一生ともに暮らすのだ。昼も、そして夜も……。
 キングスリー家の丘が見えてきた。はやる気持を抑え、彼は座席の傍らに積みあげた贈り物の箱に目を走らせた。大部分はキングスリー家の人々へのお礼の品で、ロンドンの高級店のドレスや小間物類、帽子、高価な葉巻などが入っていた。
 だが、一つだけローズのために持ってきた大きなドレスの箱がある。中の三枚はどれも彼女によく似合うはずだ。そして何よりも、一年前に渡しそびれたこのポケットの指輪。これを彼女の華奢な指にはめてやるのだ。


 屋敷に到着するや、子爵は自分で馬車のドアを開くと外へ降り立った。御者に必要な荷物だけ降ろすように指示して、館に入ると、出迎えているキングスリー家の人々に会釈した。
 玄関ホールに出てきたメアリーは、期待にはちきれそうになって、子爵に手を差しのべ声をかける。
「長い間お出かけでしたのね。もうあたしのことなんかお忘れになったかと、ずいぶん気をもみましたのよ。ひどい方!」
「これは失礼を……」
 事実、完全に忘れていたのだが、彼は微笑を浮かべて、その手を取り口につける。
「お詫びに手土産を少々持参しました。これでご機嫌を直していただけると、嬉しいのだが」
 メアリーが振り返って歓声をあげる。それには見向きもせずに、彼はキングスリー夫妻とともにサロンへ向かっていった。歩きながら目でローズの姿を探したがどこにも見あたらない。
「彼女はどうしています?」
 サロンに入ると、子爵はすぐさま夫妻に尋ねた。なぜまだ姿を見せないのだろう? やはり自分を避けているのか。もしかするとまた、具合が悪くなったとか……。
 キングスリー夫妻は目を見交わし、具合悪そうに言葉を探していた。彼が不安になって重ねて問いかけると、ようやく氏が口を開いた。
「実は……、突然でしたがミス・レスターには大変よい話がありましてな。あなたにもきっと喜んでいただけると思うのですが。彼女はあなたのお屋敷で、御妹君の家庭教師をしていたそうですな」
「ええ、まあ……」
 家庭教師? 彼女はそれしか言わなかったわけか。
「それで、隣村に最近赴任してきたばかりの若い牧師がおりまして、これがまじめで教養もあるなかなかの好青年です。まだ一人身なので、牧師館を切り回してくれる優秀なご婦人を希望していまして……」
 彼の顔つきがみるみる険しくなったのに気付き、キングスリー氏は思わず口をつぐんだ。夫人が助け船を出すように、慌てて口を開く。
「先日、そう、三、四日前でしたわ。その牧師様をこちらにお呼びした折、ちょうど良い機会だからと二人を引き合わせてみましたの。ミス・レスターも大層お気に入ったようでしてね。すぐにも向こうの牧師館に行きたいと言われたんですのよ。それで……」
「さっさと行ってしまったというわけか? 何と言うことだ!」
 子爵は信じられない思いでその話を聞いていた。身体に屈辱感と痛みの入り交じった衝撃が走る。
 本当に何と言うことだ! 自分が彼女をこれほど思っているのに、どうして彼女はそんなことができるのだろう? これではまるで、裏切りではないか。

 その時、気まずい沈黙を破ってメアリーが嬉しそうに部屋に入ってきた。さっき子爵が持ってきた新しいドレスを着ている。
「子爵様、ご覧になって! わたしこういうのが欲しかったの」
 だがその顔に浮かんだうきうきした表情も、部屋の重苦しい雰囲気にあってたちまち消えてしまった。
「いったいどうなさったの? 何か悪いことでも?」
 それには答えず、子爵は再びキングスリー氏の方を向いた。口元を引き締め青ざめた顔に、目だけがぎらぎらした光を帯びている。夫妻は落ち着かなげに身体を動かした。
「それでは、ミス・レスターは今その村の牧師館にいるのか? その牧師と一緒に。それはどこにあるんです?」
 彼は何とか平静な声を出そうと、歯を食いしばった。
「シークエンド村に入れば、教会はすぐに見えますが……」
 おろおろと言いかける夫人の横で、メアリーが信じられない思いで叫んだ。
「いったいどうなさったの? どうしてそんなにあの人のことを気になさるんです? たかが元家庭教師じゃありませんか。彼女がどうしようと好きにさせて、放っておけばいいのよ」
「たかが家庭教師だと?」
 子爵はきつい表情でメアリーを見やり、乱暴に口を開いた。
「それ以上無礼な言葉はお控えいただこう、ミス・キングスリー。そのたかが家庭教師は、一年以上も前からわたしの婚約者だ。わたしはロンドンから、彼女を迎えに来たのです」
 その言葉にパニックに陥ったキングスリー一家を顧みもせず、子爵はそのままふいと外に出て、馬車に歩み寄った。御者が慌てて館から駆け戻ってくる。
「シークエンドという村へ行く道を知っているか? わからなければ丘を下りて村人に聞けばいい。いそいでそこへやってくれ!」
 彼は御者に激しく命じると、すぐさま馬車に乗り込んだ。こうして馬車は再び丘を駆け下りていった。



 出せる限りのスピードで馬車を走らせながら、子爵は心に沸き上がる言いようのない苦痛と憤りをこらえていた。
 どうか間に合ってくれ! 彼女が取り返しのつかないことをしでかす前に、何としても連れ戻さなければ。
 いや、落ち着け、落ち着くんだ。いくらなんでも出会って四、五日足らずで、結婚までするはずはない……。

 自分にそう言い聞かせながら、彼はシークエンドの村が見えてくるまで、馬車の窓から外を睨みながら身じろぎもしなかった。やがて、村に入り教会の尖塔が見えた時、子爵はそこで馬車を止めさせた。
「ここからは、わたし一人で歩いていく。君も長旅で疲れたろう。ここらの家で馬の世話を頼んで休憩してくれ。わたしは牧師館に用がある。二、三時間ほどしたら来てくれ」
 御者にこう言うとポンドを一枚与え、小躍りしている御者を残して、子爵は教会の方に向かって歩き始めた。
 牧師館は教会堂からそう遠くないところにあった。通りすがりの婦人から教えられた建物の前に立って、子爵は気持を引き締めた。そのまま入って行こうとした時、大きな洗濯桶らしき物を抱えたローズが建物から出てきて、裏の方に歩いていくのが目に入った。
 どきりとした。だが、何をしているのか見てやろうという気持が起こり、彼は見つからないように離れた木立の間を歩きながら、裏庭まで入っていった。
 この寒空にもかかわらず、腕まくりをしてシーツや敷き物を次々と干していく彼女の生き生きと楽しそうな様子が、はっきり見てとれる。子爵は今すぐ出て行って、彼女の手から洗濯物を取りあげ投げ捨ててやりたいのを、ぐっと我慢していた。まだ病後間もないはずなのに、彼女はいったい何をやっているんだ? だいたいなぜ彼女があんなことをしなくてはならない? あれは洗濯女の仕事だ。未来のサーフォーク子爵夫人のすべきことでは断じてない。
 そこへ牧師らしき人物が現れて、彼女と何か話し始め、二人で笑いながら室内へ入っていった。

 腹立たしさにショックが混じった。一気に昨夜からの疲れが出たような気がして、目を閉じ木に身体をもたせかける。急に激しい怒りが湧いてきた。
 いいとも、彼女がそのつもりならもう容赦しないぞ。
 子爵は決意に満ちて、牧師館に近づいていった。



 「それは……」
 ローズが牧師の問いに返答に窮し口ごもった時、牧師館の扉を強く叩く音がした。
 応対に出たウォリス牧師は、ドアの前に冷たい表情で立っている男を見て、とまどいを隠せなかった。だがすぐに、気を取り直したように会釈して、丁重に中へ招じ入れた。

「閣下、ようこそシークエンドの牧師館へお出でくださいました。わたくしは教区担当牧師のウォリスと申します。失礼ですがどちら様でしょうか」
 入ってきた男の精悍だが気品のある顔立ちと物腰、旅行用の衣服を身につけたその身なりから、彼が貴族であることは一目瞭然だった。
 牧師はていねいに言葉をかける。男は、テーブルの前に座ったまま唇をきつく噛んでうつむいているローズに、さっと視線を走らせてから、ゆっくりと帽子を取り皮手袋をはずすと、牧師にていねいに挨拶を返した。
「どうも、お茶の最中に突然申し訳ない。わたしはサーフォーク子爵、ジェイムズ・レイモンドと申します。実はソールズのキングスリー家で、こちらにわたしの婚約者がお邪魔していると聞き、彼女を迎えに来たのです」
 言いながら、もう一度ローズに鋭い目を向けた。彼女が驚きのあまり身をこわばらせたのがわかった。それは牧師も同様だった。
「何と言われました? あなたのご婚約者? そ、それはつまり……、あの人のことですか?」
 牧師がローズの方を怪訝な顔で振り返る。ローズは石になったように動かなかった。
「そう、彼女です」
 ジェイムズはそのまま彼の横を通り過ぎて、ローズに近づいた。テーブルの前に立つと陽気さの中にとげを込めて声をかける。
「やあ、ローズマリー。元気そうじゃないか。ちょっと見ないうちに、こちらの牧師さんと楽しくやっているようで嬉しいね。だがもういい加減に遊びはやめて、わたしと一緒に来たまえ。それとも」
 再び牧師の方を振り返って皮肉な笑みを浮かべる。
「君を連れて帰るためには、彼と決闘でもしなければならないのかな?」
 うつむいていたローズの顔がさっと上がった。その目に非難を込めて彼を見上げる。あまりの言葉に頬が紅潮してくる。二人は激しくにらみ合った。
「何てひどいことを! 神を畏れないんですの?」
「わたしが何を恐れているか、君にどうして分かる? いいから来るんだ!」
 ジェイムズが力づくで彼女の腕を引っ張って立ち上がらせた拍子に、椅子がひっくり返って大きな音を立てた。唖然としている牧師の脇をすり抜けるように、子爵はローズの手をぐいぐい引っ張って外に連れ出した。
 そのまま彼女の方を振り向きもせずに、牧師館の裏手にある木立の中まで連れていく。
 ローズは何とか手を振り切ろうとひねったり引っ張ったりしたが、万力のような力で捕まれていて、とても無理だった。足早に歩く子爵についていくローズの息が切れてきた。


 しばらくしてようやく手をもぎ放すと、彼が振り返った。怒りのあまり身体が緊張し、巻き過ぎた弦のようにピンと張り詰めている。
「いったいどういうつもりなのか、分かるように説明してもらいたいね。わたしは君にキングスリー家で待つようにと言ったはずだ。それなのに戻ってみたら君はこんな所で、他の男とよろしくやっているとは」
 激情のこもった低い声。彼はいったい何を言っているのだろう。ローズは無言で彼をにらみながら、真っ赤になった手首をさすった。
「あなたが何をお考えになったか知りませんが、わたし達はそんな……」
「違うと言うのか?」
 探るようにその表情を見つめながら、子爵はローズの肩に手をかけ激しく揺さぶった。ローズが身を振りほどこうとするのを感じ、逆上した。突然子爵は、ローズを力いっぱい抱きすくめると、荒々しく唇を押しつけた。
 もがく彼女の苦痛などまったく斟酌されなかった。思い切り彼女の唇を貪り、歯と舌で固く閉じたそれをこじ開け、荒々しく侵入する。ローズの唇が切れて血の味がした。ようやくジェイムズが少し顔を離した時は、二人とも荒い息をついていた。

「どうしてわたしから逃げる?」
「逃げてなんか……」
「いいや、君は逃げてるさ。わたしがソールズへ来た最初からそうだった。わたしが気付かないとでも思ったのか」
 彼は片手で彼女をしっかり抱きしめたまま、もう片方の手で顔をあげさせ詰問した。鋭い眼差しが彼女の表情を探っている。このままでは、何も考えられなくなって、身も心も彼に委ねてしまうだろう。ローズはまだ理性が残っているうちにジェイムズの抱擁から何とか逃れようと腕をつっぱり、懸命に身体をひねった。
 だがそのささやかな抵抗も、彼の攻撃にますます熱を加える結果を引き起こしたに過ぎなかった。彼はそのまま片手でローズの頭を押さえ、身体を抱く腕に一層力を込めた。そして再びキスを始める。彼の舌が甘いローズの口の中を味わい尽くした。その焼けつくような激しさに次第に意識が奪われ、朦朧となってくる。ローズは必死で顔をそむけようとしたが無駄だった。足がぐらつきもう立っていられない。やがて二人は膝を突き、折り重なるようにその場に倒れ込んだ。
 ジェイムズはローズに覆い被さるような姿勢になった。だが、まだキスをやめない。かえって一層彼女への渇望は激しさを増し、ジェイムズはもどかしげに彼女の着ているハイネックの服のホックを胸元まで開いた。ローズの柔らかな白い肌が露わになると、更なる飢えに突き動かされるように、彼の唇がうなじから鎖骨へ、そしてさらに柔らかな胸元まで滑っていく。彼の手に薄い下着の上から胸のふくらみをまさぐられ、ローズは激しく震えた。
「お願い、やめて!」
 身をそらしすすり泣くようなうめき声を漏らしたとき、ようやく彼は自分が今何をしようとしているのかを悟った。この脆そうで、その実まったく頑固な恋人を、罰するつもりで始めたキスだったのに、今や自分のほうが完全に虜になっている。このままでは行き着くところまで行ってしまう。そう気付いてジェイムズは意志の力を振り絞り、彼女の身体から顔をあげるとローズを見下ろした。
 彼の眼差しは黒い炎のようで、ローズは目をそらすことさえできなかった。茶色の美しい瞳に懇願の色が現れる。
「起きさせて」
 荒い息の中で震え声になるまいと必死だった。だが彼は身を起こしはしたものの、まだ彼女の頭の両側に手をついていて、彼女に覆い被さる姿勢を解いていなかった。そのままの姿勢で、もう一度尋ねる。
「どうしてわたしから逃げるのか、答えてくれ」
「もうあなたと一緒にいたくないからだ、とは、思わないんですの?」
 ジェイムズの顔が強ばったのがわかった。彼はゆっくりと身を起こすと、ローズが起き上がるのに手を貸した。ローズも片肘を突いてようやく起き上がると、震える手で乱れた髪や衣服を整え始めた。

「君とは時間をかけて、話し合う必要があるようだな」
 ジェイムズはその様子を見ながら、無表情に言った。
「いいえ、たった今申しあげた通りですわ」
 ローズはそっと目を伏せた。もうこれ以上こんなことを言いたくない。これでおしまいにしよう。目を再びあげて彼を見つめる。その眼差しは穏やかで、少し潤んでいた。
「子爵様、わたしなんかのために、こんな所まで来てくださるなんて、本当に何と申しあげていいのか。どんなに感謝しても足りない気持です」
「感謝してもらうために来たわけじゃないさ」
 子爵が荒々しく遮るのを待たず、彼女は首を振ってさらに続けた。
「まだそんなふうに思っていてくださったなんて、わたし考えてもいませんでした。でも、あなた様のために、わたしのことなど早くお忘れになって、もっと素晴らしいお嬢様とお幸せになるべきですわ。わたしには、あなたのそのお気持だけでもう十分です。どうぞもうこのまま、お行きください。最後にもう一度だけ、お目にかかれて嬉しゅうございました。さようなら。お元気で」
 ローズは涙をこらえて彼を見つめ、ようやく微笑みを浮かべた。そして、そのままくるりと向きを変え、牧師館の方へ駆け出そうとした。だが二歩も行かないうちに、伸びてきた腕に引き戻される。ローズの耳元で荒々しいうめき声がして、子爵が彼女の胴を掴んで力まかせに引き寄せていた。

「それができるくらいなら、君を探し出すのにあれほど苦労する訳がないじゃないか!」
 今行かせてしまったらもう本当に終りだと、彼にもはっきりわかった。
「行かないでくれ。お願いだ……」
 子爵はあえぐように息を継いだ。心臓が音を立てて脈打っている。どうしてこんなに二人の仲がこじれてしまったのだろう。離れていたこの一年に、何かあったのか?
「もうこれ以上、お話することはありませんもの」
「じゃあ、どうして泣いているんだ?」
 はっとして目元を押さえたがもう遅かった。ジェイムズはもう一度、ローズをしっかりと抱き締めた。愛しげに名を幾度も呼ばれ、離さないとばかりにただ抱き締められていると、抵抗する気力が急速に萎えてくる。
 首筋に彼の荒い息がかかる。さっきのような乱暴な力任せの彼になら、抵抗することもできた。だがこういう優しさには弱かった。

「いいかい、もう一度二人で話し合うんだ。ここを出て、わたしと一緒に来てくれるね?」
 懇願され、ようやく抱擁を解かれた時、ローズはこっくりとうなずいてしまっていた。


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12/04/10