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 「はるかな昔、地中海の島では、さらわれてきた美しい乙女達が、サラセン人やヨーロッパの男達の前に立ち、肌をさらしたそうだ。君なら、さぞかし途方もない高値がついただろうな……」

 夜の空気と地中海の波音に混じり、男の声はさっきよりこもって響いた。反論しようとした矢先、反抗を許さない手が彼女を引き寄せ、胸元をおおっていた髪を払うと、露になった瑞々しい果実の味を確かめるように唇が触れてきた。

 思わず、びくんと激しく身じろいでしまう。
 何も感じたくないのに、弄ばれた先端は濡れてつんととがり、身体の芯が熱を持ったように疼き始める。身に覚えのない感覚に、アビーはぞくっとして目を閉じた。これは一体なんだろう?

「目を開くんだ」
 彼が静かに促した。無視して顔を背けようとするが、顎を掴まれて思わず目を見開く。
 覗き込んできた彼の瞳はほの暗く、たぎるような熱を帯びていた。

「確かさっき、恋人がいるようなことを言っていたが、はったりか? 答えるんだ。君はバージンなのか?」
「別に……」
 露骨な問いに顔が赤く染まった。泣くまいと、膨らんでくる涙を懸命にこらえながら、アビーは足を踏みしめていた。そうしていないと、今にも倒れてしまいそうだ。
「その二つは両立できないことではないでしょう? どうぞお好きなように考えてください。何なら、ご自分で確かめて見るといいんだわ!」
「なかなか大胆だな。大いにそそられる提案だが、まぁいい。すぐにわかるさ」

 まさか本気で? だが、すぐに考える余裕がなくなってきた。彼はアビーの反応を測るように触れ続け、月光の中に惜しみなくさらした白い裸身を、手のひらで丹念に愛撫していく。
 その手が下腹部へと下りていくにつれ、もうやめて、と叫びそうになるのを必死でこらえた。巧みな指先はまるで彼女の反応の全てを心得ているように、最も敏感な部分を幾度もかすめては、触れるかどうかの愛撫を加えている。そのたびに、これまで誰にも触れさせた事のなかったその未知の部分がしっとりと潤うのを感じ、激しく困惑した。


「アモールが、金の矢を射損ねたプシュケー……、いっぺんの穢れもない純白の乙女か」

 呟きとともに愛撫の手が止まり、震える彼女の身体を引き寄せる。やがて精悍な顔が近づいてきて、噛み締めていたアビーの唇をほぐすように唇を重ねてきた。
 巧みなキスだった。進入してきた熱い舌に口内を占領されながら眩暈を覚える。こんなにも無防備な状態でこの男の腕の中にいるしかできないなんて、いったい自分はどうなってしまうのだろう?

 不安におののいたとき、彼が突然離れた。震える肩にぱさりとブラウスがかけられ、アビーは自由になっていた。
 ほてる身体を覆い隠そうと、かけられた衣服を夢中でかき合わせる。
 彼は一歩離れて彼女を見ていたが、やがて、感情のこもらない声が裁断を下した。

「では、君が一緒に僕の島に来るんだ」

「……どういう意味です? 父の借金の代価に、わたしを……買うとでもおっしゃるつもり?」

 先ほどの屈辱をさらに上回るような言葉に、また声が震えた。そろそろ耐えられる限界に近い。だが彼は口元を面白そうにゆがめると、あっさりと言った。

「はっきりそう言って、差し支えなければね。女性は、もう少しロマンティックな言い方がお好みじゃないのかな?」
「どう言おうと事実は変わらないわ。つまり……、父が返済するまでの間、わたしにあなたの……愛人になれ、ということ?」
「いや、少し違うな」
 男の強い眼差しが、再びアビーを捉えた。
「君に、僕の妻になってもらおう。昼は美しく従順な理想的な妻、そして夜は情熱的な恋人にね」
「何ですって……? あなた、気でも狂ったの?」
「僕はいたって正気だよ、マティア・ムー」
 彼は楽しそうにさらりと答えた。
「僕の母は、由緒正しいギリシャ正教の司祭家の血縁でね。その息子が愛人を家に連れ帰るわけにはいかない。婚約者として一緒に帰り、島で結婚式を挙げてもらうことになる」
「そんな結婚、信じられないわ! もし父が借金を全部返したら、どうなるんです?」
「そのときは、また改めて話し合うことにすればいい。いつかそんな日が来るとして、だが」
「……絶対に無理よ……」
「僕の妻の地位は、それほど苦痛かな? 僕は仕事でフランスやイタリアに行くことも多い。一緒に行けば、君も自由にショッピングや食事が楽しめる」
「馬鹿にしないで!」
 揶揄するように言われ、かっとして叫んでしまった。
「それだけじゃない。ベッドでも……。むしろ、かなり楽しめるんじゃないか?」
「だ、誰があなたなんかと!」
「おやおや、君は忘れっぽいのかな?」

 皮肉な視線に全身をあぶられ、たった今、震えながら彼に身をゆだねてしまった事実を嫌でも思い出し、アビーは真っ赤になって顔を背けた。
 だが、彼はアビーの背後に来ると、乱れてかかる長い髪を掻き分け、滑らかな曲線を描いた首筋に熱い唇を押し付けてきた。
 ひりつくようなその感覚にまたおののく。そのまま薄い布越しに上半身を再びエロティックにまさぐられ、唇から小さくあえぎが漏れた。

「まだ本当の愛撫も知らないらしい。君の恋人とやらは、きっとでく人形のような男なんだな」
「トニーの悪口を言わないで! わたし達、まだ付き合い始めたばかりで……」
 必死になって、まるで魔よけの護符のように恋人の名を口にすると、アビーは懸命に身体を捻って彼を睨み付けた。
 彼の目が一瞬きらめいて彼女を捉える。

「君を欲しいと思うのに時間が必要な奴に、君はふさわしくないな」

 あざける様なその口調は、どこかどきりとするものを含んでいた。またそっぽを向くと、彼はくくっと笑って続けた。
「君も僕も、しばらくは存分に楽しめることは請合ってもいい」

 この人、本気なの……? 相手が提示する結婚の条件に愕然として、声が高くなる。

「わたしは、自分を売るつもりも、担保に差し出すつもりもないわ!」
「それは残念だな。だが、これが僕から君のお父さんへの、債権執行猶予のただひとつの条件だ。そうだな。早期離婚防止のためにも、書面にして、君が僕の妻である間は、無期限でコートニー氏の債務を凍結する、と書き加えておこう。そして子供でもできれば……、完璧だ」
 アイスブルーの瞳が細められ、呆然と立ち尽くす彼女をもう一度鋭く捉えた。
「もちろん、聞き入れるかどうかは、君次第だがね」

 アビーの目が、突然輝きを失った。
 それでは、選択の余地など残されていないも同然だった……。


*** *** ***


 翌朝遅く、酔いから覚めて大層ひどい顔をしてしょげ返っている父に、アビーはホテルの部屋でなるべくやさしく現状を告げなければならなかった。
 昨夜、賭博で大負けして、莫大な借金をディミトリス・クリスタコスに負ってしまったこと。彼が財産管理専門の弁護士を派遣してもいいと言っているが、断ったこと。そして父の顔色が灰色になる前にすぐ様、あの後、自分とディミトリスが話しているうちに恋仲になり、婚約したことまで話した……。

 僅か一夜にして、手に負えないほど途方もない事態になったことに、父は最初ひどく混乱し、なかなか受け止め切れずにいるらしかった。だが、アビーが昨夜、ディミトリス・クリスタコスからプロポーズされ、それを受けたことを理解した途端、絶望のふちに立っていた顔にさっと生気がさした。
 アビーの心にやりきれなさが広がったが、表面上は断固押し隠して微笑を浮かべ、父を安心させることに徹した。

 思いがけない娘の婚約で、全財産を失う危機から解放されたことを理解したように、父は鼻をすすりながら悦ばしげに幾度も頷くと、娘の手にすがるようにきつく握り締めて、婚約を祝ってくれた。
「さすがはお母さんの娘だ! お前なら玉の輿も夢じゃないと、わたしは常日ごろ思っていたよ」

 アビーは父の老いと疲れを身にしみて感じた。母が亡くなってからもう十年だ。男手ひとつで懸命に自分を育ててくれた父に、これ以上の負担を負わせることはできない。これからは自分がなんとかしなければならないのだ。

 頃合を計ったように、ホテルマンがディミトリスからのランチの招待状を持って現れた。
 昨夜の敵愾心もどこへやら、いそいそと返事をしている父を見て、アビーはギリシャへ行く覚悟を決めざるを得なかった。




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12/09/19 更新
後書きは、ブログにて。