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 殺伐とした気持で髪をブラッシングして乾かすと、束ねてゆるくアップにまとめた。
 さっとメイクをして急いで彼が出していった服を着てみる。
 自分では決して選ばないと思うような、背中のくれたエキゾチックなタイトドレスだったが、サイズはこれまたぴったりだったし、意外によく似合っている。鏡を見て目を丸くした。
 時計を見ると、もう昼前になっていた。
 何とか身支度を済ませ、荷物をまとめると隣の部屋に出て行った。彼は電話中だったが、受話器を手に振り返って、アビーの全身に目を走らせる。
 新しい服の効果を見てとったように、彼の顔に満足気な微笑が浮かんだので、複雑な気持になった。
「では、行こうか」
 電話を置くと、そのまま一緒に部屋を出た。チェックアウトを済ませ、ホテル前に駐車された車に乗ろうとしたときだった。

 二人の目に、車のタイヤの前に置かれていた何か大きな塊が映った。ディミトリスがはっと息を吸い込み、「見るな!」と声を上げて彼女の頭を自分の胸に押し当てた。
 だがアビーも見てしまった。それが、頭部を切り離された大きな黒猫の死骸だとわかったとき、思わず悲鳴を上げてディミトリスの胸にしがみついてしまった。
 ホテルの従業員達が数人、大慌てて不気味な死骸を片付けている。つい先ほどまで、確かに何もなかったそうなのですが……、としどろもどろに釈明する支配人の言葉を苦々しく聞きながら、ディミトリスはアビーを気遣うように車に乗り込んだ。

 レストランのワインも食事もおいしく、二人とも、それきり忘れたような顔でその話はしなかった。
 ただ苦々しい思いだけが、アビーの心の隅にいつまでも重く残っていた。



*** *** ***


 クリスタコス家の島は、エーゲ海に無数に点在する小さな島嶼のひとつだった。
 自家用ヘリに乗せられ、義母と夫と三人で飛びながら、この地域を激しく往来するには、ヘリは確かにかかせない交通手段だと納得する。
 やがて、テラスにコリント式を模したポールを配した瀟洒な邸宅が見えてきた。屋根に、溢れる太陽光を採取するボードが取り付けられているようだ。館の敷地内に作られたヘリポートに降り立つと、彼は義母と妻が降りるのに手を貸してから、アビーと並んで歩き出した。
 一段高い丘地に立てられた屋敷は眺望がよい場所にあり、庭から入り江がよく見える。
 小さな入り江には、大小のモーターボートやヨットが何隻かゆれていた。少し中に入ったところに風車が三基、海風を受けて勢いよく回っていた。
 庭先に少し立ち止まって、もう馴染みになってきた潮の香りをかいでみる。全部が私有地のせいか、ことさら商店や公的施設らしき建物も見当たらなかった。

「相変わらず、何もないところね。でも管理は怠りないようで結構よ」
 マダム・クリスタコスが無表情につぶやくと、先に邸内に入っていった。

 本当ね……。わたし、ここで暮らしていけるのかしら。愛もない夫と……。

 脇を運ばれていくトランク類を見ながら、そんな不安を感じていると、ディミトリスの手が肩にかかった。
 問いかけられるように顔を覗きこまれ、つい考えていたことを口にする。

「あなたは……、普段この島で過ごしているの?」
「いや、アテネやテッサロニキにいることの方が多いな。本土とここを行き来している。君にもそうしてもらうことになるだろう。向こうにも近いうちに連れて行くよ。だがここは、僕が生まれた館であり、クリスタコス家の長子が代々譲り受けていく島だ。一族の原点とも言える……」
 そのとき、浅黒い肌のがっしりした女性が二人の傍に来たので、言葉が途切れた。
「彼女はこの館の管理をしているダニエラだ。ダニエラ、大奥様と奥様の案内と世話を頼む。僕は少し電話をする用件があるので、先に失礼」
 早口でアビー達にこう言うと、彼は母に軽く会釈して一人で二階に上がっていってしまった。

「相変わらず忙しいわね。本当に仕方のないこと。あんな風だから、フィリスともうまく行かないのよ」
 え? アビーは驚いてマダムに目を向けた。だが、彼女は小さくため息をついただけで、使用人にジャケットを手渡している。
「疲れたから、わたくしは部屋で休むわ。ハンナをよこしてちょうだいな。ダニエラ、あなたは新しい奥様のお世話をなさい」
「はい、大奥様」
 ダニエラと呼ばれた家政婦は、お辞儀をしてから、新しい女主人を少しうさんくさげに見て、「こちらへ」と先に立って邸内を案内してくれた。
 食事用のダイニングにサンルーム、パーティのできそうな大部屋まで順に見せられた後、最後に通されたのは美しい寝室だった。三、四人くらいゆうに寝られそうな大きなベッドが置かれている。
 思わず立ち止まった彼女にかまわず、ダニエラは運ばれてきた彼女の荷物をてきぱきと解くと、さっさとクローゼットに収納していった。


 それからの時間はたちまち過ぎた。ディナーはここでも、海の幸をふんだんに使った素晴らしい料理だったが、義母と夫に挟まれては、アビーに味を楽しむゆとりはなかった。
 黙って食べながら、この親子ではそもそも話題があまり合いそうにない、などと考える。
 食事を終えるや、ディミトリスはすぐに席を立った。母に挨拶し、アビーを伴い早々にさっきの寝室に引き上げていく。義母から一挙一動をチェックされているようで、神経をとがらせっぱなしだったから、やっと解放されることができてほっとした。
 だがドアが閉まると、今度は二人の寝室に、違う緊張感が立ち込める。

 整えられた大きなベッドの上には、二人のナイトウェアまできちんと準備されていたが、見るなり目を背けてしまった。
「……アビゲイル?」
「今は、わたし達二人だけだわ。もう『仲のいい振り』は必要ないでしょう?」
 むっとしたように口元を引き締めた夫を避け、室内の年代物とおぼしき調度品や絵画を眺めてから、バルコニーに出てみる。そこからの見晴らしもホテル並だった。

 彼女の後を追うように背後に影が落ちた。びくっとした途端、彼の腕にさらうように抱き上げられてしまい、思わず声を上げる。
「い、いやよ、お願い、やめて……」
 驚きと怒りをこめて必死になって抵抗を試みたが、彼はそのまま、大またに彼女をベッドに運ぶと、乱暴に投げ出した。慌てて肘で後ずさろうとしたが、たちまち身体を押さえ込まれてしまう。
 アイスブルーの瞳が挑戦的にきらめき、見下ろしていた。どうやら抵抗すればするほど、彼を刺激してしまうようだ。そのままディミトリスは、ボタンがはじけ飛ぶのもかまわず、アビーの着ているブラウスとスカートを性急に剥ぎ取ると、自分も乱暴にネクタイをはずし、カッターシャツをかなぐり捨てた。
 髪が解かれ、気が付くと生まれたままの姿で彼と向き合っていた。どくんどくんと打ち付ける心臓が、緊張で張り裂けそうになっている。
「せめて、シャワーを先に……」
「どうせ、また汗をかくんだ。後でもかまわないさ」
 降りてきたキスとともにからかうように囁かれる。荒い息遣いがどちらのものか、もうさだかではなかった。こうなったら抵抗しきれるものではない。
 だが、身体は奪われても、心の防御までは決してくずすまいとアビーは決心していた。のしかかってきた彼に、なおも言葉で抵抗を試みる。
「お、お義母様は……、あなたの花嫁には、フィリスさんを望んでおられたのではないの?」
「また何を言い出すかと思えば……」
 敏感な肌を、じっくりと味わうように唇を押し付けられていてもなお、必死に声を上げるアビーに、落とされた明かりの中で、笑うように彼の唇がカーブした。
「母がどう思おうが、僕達には全く関係ないことだ。昨夜もそう言わなかったかな?」
「でも、あなた方ギリシャ人は、そういう意見をもっと尊重するのかと思っていたのに……、あっ」

 とうとう業をにやしたように、彼はアビーの足を押し開くと前戯もなしにダイレクトに挿入してきた。自分の物だと思い知らせるように、突然深々と入ってきた彼を拒むこともできず、身体がのけぞり、その場所が激しく収縮する。
「無駄な意地を張るのも、そろそろやめたらどうだ? 君は僕のものだ。それは君がどう思おうが変わらないよ」
 見下ろす目が哀れむように微笑んでいる。それでもなお頑なに横を向こうとするアビーの顎を無理に捉えると、唇で半開きになった花のような唇を奪いとった。優しさの消えた目に、せきららな欲望の炎だけが踊っている。
 はっと息を呑んだとき、嘲りの声が再び耳を掠めた。

「これでもまだ抵抗するつもりか? まぁ、それも面白い。いつまで強情を張れるか、見せてもらおう」



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patipati
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12/10/09 更新