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「きゃっ!」
 いつの間に!
 不意打ちに驚いた拍子にグラスを倒してしまい、水がテーブルにこぼれて慌てる。
 おっとっと、と一歩下がった彼に「ごめんなさいっ」と謝りながら、慌てておしぼりでテーブルを拭いた。
 ああ、最悪。なんだか始める前から終わってる……。
 顔に斜線を入れて凹んでいると、また気さくな声がした。

「そんなにビビらなくてもいいんじゃない? それとも怒ってる? 遅くなって悪かったよ。ちょっとイロイロ手間取ってさ」
「あ、いえ、お忙しい中お呼び立てしてしまって、こちらこそ……」
 紋切り型の台詞を口にしながら、目の前にどっかと腰を下ろした彼をようやくまともに見返した。途端に驚いて目をぱちくりさせてしまう。

 遅れてきた匠は、五年ぶりにもかかわらず、いかにもざっくばらんで気軽に見えた。
 かっちりしたビジネススーツで武装したわたしとは対照的に、あの頃よくかぶっていたのと同じような帽子に、パーカーにテーラージャケットをかさね、ジーンズという出で立ちだ。帽子の下の顔は、別れた頃より少し引き締まって渋くなっていたけれど、やっぱりいい男には変わりなかった。
 挨拶しかけて、ぽかんと沈黙してしまったわたしに、彼はニヤッと笑った。何やら訳知り顔で顔を寄せてくる。

 何? 今日はお遊びで誘った訳じゃないんですけど?

 奴の顔が二十センチ圏内まで近づいたところで、はっとしてタブレットを取り上げ、迫りくる顔を押し返してやる。
 ちぇ、と舌打ちして、彼は帽子を直しながら元の姿勢に戻った。それでも無言でチェックされているようで、なんだか緊張する。最近寝不足がちで化粧のノリがよくないのが気にかかった。ローカル臭のしそうなこの服と言い、彼の今の奥様とは大違いだろう……。

 そんな、どうでもいいことばかりが頭をよぎっていると、ふいに、里穂、とまた名を呼ばれた。

 彼の瞳の奥に、意外な優しさとよくわからない痛みのようなものが走った気がした。
 次の動きの見当もつかないうちに、ふわりと両手で顔を包まれてしまい、どきりとする。彼は指先で優しくわたしの頬に触れ、額にかかる髪をかき上げてから、そっと手を引っ込めた。
 その予想外の行為に、ご挨拶の続きも忘れたわたしに、彼が顔をしかめて見せる。
「おい、何どん引きしてんだよ? 人のこと五年振りに呼び出しといて、それはないだろ?」
 わたしはつい、ぷっと吹き出した。
「……変わらないなぁ、匠……。なんか、緊張して損したかも」
 あはは、と声を立てて笑ってしまうと、変な緊張感はすっかり解ける。
「別に引いてる訳じゃないけど……。それより、副社長様になったのに、まだそんな恰好で仕事してていいの?」
「おっ、ご存知でしたか、そりゃどうも。少しは俺のことにも関心持っててくれたわけ?」
 にこっと嬉しそうに笑う、その笑顔がくせものだ。いけないいけない。平常心!
「別にそういう意味じゃないけど……」
 つい、帽子に目が行ってしまうわたしに、彼はまた笑顔になった。
「これは……、お前に会うんで、着替えたんだ。俺もこんなの久し振りだぞ」
 わざわざどうしてよ? と不思議に思ったがそれ以上突っ込むのはやめ、彼に負けない特上の営業スマイルに切り替えた。同時に、言葉遣いもよそ行き風に戻す。
「それはどうも、お忙しい中、わざわざありがとうございます。本当に久し振りですよね。副社長、お目にかかれて嬉しいです」
「どういたしまして……。あ、俺、コーヒーね」
 人の会心の笑みも無視して、やってきたウェイトレスにオーダーしているので慌てて、お昼はいかがですか? と聞くと、ああ、午前中の会議の延長で食ったからさ、と、ため息をついて無造作に応える。
 やっぱり忙しいんだな、あまり時間とらせちゃ申し訳ない。
  「ごめんなさい、お忙しいのに……」
 表情をくもらせたわたしに、彼はまたさくっと言った。
「いや、俺もさすがに、連絡しようと思ってたから」
「えっ?」
「そっち、色々大変そうだもんな。お前もきちんと健康管理できてるのか? 顔色が悪いみたいだぞ」
「まぁ、そこそこね。今へばるわけにもいかないから」
 つい本音で返してから、しまったと思った。でも余所行きになるには、雰囲気がざっくばらん過ぎる。彼が「そっか」と、頷いて、もっと何か食う? と聞いてきたけれど、話が先、と断った。

 認めたくないけれど、匠本人を前にすると、やっぱりその存在感に圧倒される。
 いつもそうだった。軽そうに見えて、彼にはその場を仕切ってしまう何かがある。
 新しいコーヒーカップが二人分、目の前で湯気を立てているのをうわの空で眺めながら、どう切り出そうかとためらっていると、いきなり言われてしまった。
「お前、ぜんっぜん変わんないな。なんか、期待して損した気分」
 ちらっと苦笑めいた笑みを浮かべて、彼は悠然とコーヒーをすすっている。
「どういう意味よ?」
 これじゃ、こっちばかり気取っていても仕方がない。腕組みして睨み返すと、彼はまたニヤッと笑った。
「お前らしいって言ってんの。今三十じゃなかったっけ? 三十路にもなれば、もうちょっと熟女めいた色気が出たかなーとか、俺を見る目も少しは変わったかなー、とか、イロイロ期待してたんだけどな。お前、相変わらずなのな。何か、がっくり来るというか、ほっこりするというか……」
「わーるかったわねー、どうせ五年たってもどっこも変わってないですよーだ!」
 大体、何を期待してたって? と、腕を組んだまま片眉を上げてみせると、はいはい、わかりましたよ、とばかりに、両手を広げている。彼のペースに巻き込まれ、わたしも心から笑っていた。せっかくの余所行きモードもいつの間にか吹き飛んで、懐かしい空気が戻ってくる。

「……で? 突然、俺を呼び出した理由《わけ》は?」
 おっと、いきなり本題に行きますか?
 妙に和んでいたわたしもようやく思い出して、タブレットを取り上げた。資料を表示しながら慎重に切り出す。
「ちょっとご覧いただけますか? これが今期までの当社の業務成績で……」
 ちらっと眺めただけで、彼は無造作に言った。
「これはもう知ってる。……で、今後も続けたいって言うんだろ?」
「も、もちろん……。我が社の人的資材は素晴らしいし、どこにも支障はないもの」

 匠は無表情に帽子を脱ぐと、ちょっとくせのある髪を撫でつけた。あの柔らかそうに見えて硬い髪の手触り、今も変わっていないだろうか。ふと脈絡もなくそんな考えがよぎり、思わずちょっと頭を振る。そんなわたしに、何やってんの? と目を細めながら、彼はあっさりと言った。

「言いかえれば、物的資材は支障が出まくってるってことだろ? それでうちからの援助が欲しいって話だよな?」
 いきなり核心を突かれ、ぐっと押し黙った。
「どうして……? もしかして知ってたの? うちの経営事情……」
 しどろもどろで問い返すわたしに、彼は初めて実業家らしい表情で頷いた。
「お前の会社のことは、いつだって見てるさ」
 さらにぐっと来てしまい、しばらく沈黙してしまった。ありがとうと言うべきなの? そんな風に言われても、どう返したらいいかわからない。
「……でしたら今日は、海東酒造の社長代理として、エードコーポレーションの副社長様に、是非とも、ご検討いただきたい提案がありまして……」
 やっとの思いで切り出した途端、また意外そうに遮られた。
「お前、社長代理なんかやってんの? 親父さん、検査入院したことは聞いてたけど、そんなに悪かったのか?」



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patipati
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13/4/5 更新